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2010年1月

2010年1月30日 (土)

劇、その身体・06

意外なことに(なのか当然なのか)舞台(らしきところ)に立たされると、一度もその経験のナイ者は、ほとんど不安や不都合を意識しない。とくにどうってことはナイという感じだ。これは、立つということが不自然ではなく、立っていることがべつに特異な行為ではナイと識知されるからだ。なぜそうなのかというと、私たちはふだん、そういうふうに立っているからだ。ところが、演劇という枠組みと、役柄を付与されて、さて、そこ(舞台らしきところ)に立てといわれると、急におぼつかなくなる。ワークショップ百花繚乱の昨今、私がどうにも断れなくてやるワークショップの内容は、この「立つ」ということに拘った演習だけだ。たとえば、「あの壁に立ってみて」というと、ジョークのように思われるが、では、何故立てないのかとという詰問に、正確に答えられるものは少ない。「では、椅子を二つ積んで、その上に立ってみて」というふうに進めていくと、立たされるほうも次第にワカッテくる。「立つ」というのは、立っている場所が安定しているから出来ることだ。さらに、「斜め30度で立ってみて」というと、誰も出来ないことがワカル。これは「立つもの自体」が不安定であれば立てないということを意味している。そうして、演劇における「立つ」という営為は、この二つの「立つ」ことから始まって、立つという姿が、美しく(としかいえないのでそう書くが)みえないと、演技がヘタにみえるというところに着地する。究極の一人芝居である落語が、足そのものをなくしてしまったのは(座ってやるというの)は、あれはあれで、かなり合理的な発想なのだ。私が(専門ではナイが)演出において、演技者(役者)をほとんど動かさないのは、とりもなおさず、この「足」を封じることにある。演技者(役者)はとかく動き回ることによって、何か演技をしているような気持ちになりたいのだろうが、その動きの一部を封じられることによって、「楽が出来ない」と自覚し、さらに、こちとらにしてみれば、ヘタが目立たないという利点がある。

2010年1月29日 (金)

劇、その身体・05

身体のパーツである「手と足」を考えるとき、もっとも不思議なのことは、人間というのは、生まれてからかなりの時間を経ないと「立てない(二足歩行が出来ない)」ということだ。そんなことはアタリマエのことのように思われているが、思想哲学というのは、べつに複雑なことを考える営為ではナイ。アタリマエのことが何故アタリマエなのかを考える、いわば単純な思考の営みだ。単純だからといって簡単平易ではナイ。たとえば、昨日(1月28日)の中日(東京)新聞朝刊の一面コラム「中日春秋」では、チンパンジーのゲノム(遺伝子とその情報全般)と人間のそれとは、わずか1,2%しか違わないことを伝えている。その僅差がなにゆえチンパンジーという猿と人間をワケルのか。てなことを考えている頭脳優秀なひとも多い中で、こちとらはどうしたって、演劇における手と足について考えてしまう。たしかに、演技者(役者)において、おぼつかないのは、手と足であり、オーディションなどあった場合、参加者の手と足を観察していれば、そのものの技量は察しがつく。「足手まとい」というコトバがあるが、演技者(役者)にとって、ほんとうに足手まといなのは足と手そのものなのだ。・・・さて、人間が生まれてすぐに立てないということを不思議なことだとするならば、もう一歩もどって、そのような胎児をなぜ母体が環境世界に産み出してしまうのかということだ。有袋類にはカンガールのように袋があって胎児を守ることが出来るが、人間の場合は、これがまったくといってほどナイ。ただし、まったくといっていいほどナイと思われるのは、身体においてである。古くからの実験で証明されているように、胎児は、そのまま水に放り込むと、浮かび、泳ぐのだ。これは身体性というよりも、類的な継承性というべきものだ。胎児は、笑うし、なによりも母親の乳首に吸いつく。私にはこれ以上、専門的な部分に立ち入ることは不可能だが、胎児においては、すでに完成されているものと、未完成であってもかまわないものとが存在し、おそらく母体の判断は、「これなら産んでもイイ」というものではなく、「これは産んでしまわないといけない」という母体維持のための判断ではないかと思われる。で、どういうワケか私たちは、足と手を、固有のものとしては未完の、類的には完成されたものとしてのパーツ(&tool)として、環境世界に出てきたのだ。これを、舞台に立ったものが、まず不安に思わないワケがナイ。

2010年1月28日 (木)

殉生

流山児祥(流山児★事務所主宰)が、もう、う~んと前から、二人芝居やろうよと誘ってくるのを逃げる口実に、「俺は60歳になったら、また役者をやる」といいつづけてきたのだが、どうも、私財のほうの蓄えが、そこまでもつかどうかワカラナイので、じゃあ、やるかということになったのが、『浮世根問~live~歌謡曲だぜ人世は』(演出・小林七緒)なんだけど、これで、ふと思い出したのが、前述したコトバ、「60歳になったら、もっぺん役者をやる」だ。それくらいになると、もう体力勝負でもなかろうし、せりふだって適当になっちまうから、役者稼業からオサラバするときに、その理由づけに、そういってきたことはいってきた(といっても、聞いてた連中がいたかどうかは疑問だが)のが、なんだ、もうその60歳(還暦ということネ)も目前なんだなあと、そう思って、じゃあ、役者やるかなあと、漠然と思いよぎらしているところだ。ここんところ、「そうだな、オレは、演劇で人生を棒に振ると決めたんだから(ほんとうは人生のほうから棒に振られたにせよ)残るものは演劇だけだよなあ」と、みょうに寂寞としたり、あるいは力の抜けた虚無的幸福感があったりして、「あのね、幸せなんてのはね、ナニかを〔好きになる〕ということ以外にはナイのよ、なんでなら〔嫌いになる〕ってとっても不幸でしょ」と、そういうことをメモに書いたり、オレやオレの生き方が嫌いになられても、オレはちっとも不幸ではないから、もう、世間のことはほんとはどうでもイイんだ。と、無頓着を決めつけて、さて、殉死というコトバはあるが、殉生もまた、自分の思想、人生に殉じて死ぬことと同じだと、じゃあ、まあ、そうしとこっと、川島雄三監督みたいに、積極的逃避のwarming upとして、昨日は稽古場に行く途中の地下鉄の中で、泣いていたのだ。サングラスしてたけど、さすがにジョシコーセイには、ヘンな目で観られたな。

2010年1月27日 (水)

映画情報『フローズン リバー』

コートニー・ハントの初長編監督(脚本も)。アカデミー賞オリジナル脚本賞ノミネート。クェンティン・タランティーノ絶賛。試写室は満員。あるシングル・マザー二人の話。ひとりは白人、ひとりは保留地に住む先住民の女性。私がちょっと悩んだところ(ネタバレとかいうのになるので用心)は、車は不法入国者をトランクに積んだまま、氷の中にもっと沈めるべきではなかったか、そこから不法入国者(アジア人)を必死で助け出すというシーンはあってもよかったのか、よけいだったのか。うーん、ワカンナイ。それから、死んだと思われた赤ん坊が蘇生する場面を、車中ではなく、パキスタン人(これも不法入国者)の母親に届けたときにすべきではなかったか、そんな劇的なアクションや感動は不要なのか、うーん、ワカンナイ。これは本筋とは関係ナイ部分なのだが、本筋があれだけ完璧にしっかりしているのだから、それくらいの映画的オモシロサをサービスする余裕があってもよかったんじゃないか。うーん、ワカンナイのだけど。やったら、「お決まりネ」といわれそうだから、やっぱ、私もやんないかな。いや、うまくやれば(ウディ・アレンふうにですよ)出来たんじゃないかな。うーん、ワカラン。

劇、その身体・04

男の子を放っておくと、どういうワケか土や砂を掘りたがり、棒をみつけると振り回す(西原理恵子・『毎日かあさん』)というのは、誰もが経験的に知っている。私たちは、まず自身の身体に呆然とするとき、その身体全部をみているのだが、いま少しその身体を分割してみる。おそらく、子供が穴を堀り、棒を振り回すのは、前者は食物の採掘のため、後者は二足歩行によって立ち上がったときの、保身のための、進化の名残だと思われる。二足歩行をすることによって、変化したのは、まず手と足だとしてみる。そこで、この手と足を演劇の土俵で考えてみると、舞踊家などは、身体をかなり分割して、その稽古に取り込んでいるように思える。日本舞踊において、手の動き、足運びが重要な美的要素となっているのはいうまでもナイことだ。手は扇などを持つことによって、さらに強調される。この場合の扇は、手の延長(拡張)に他ならない。これは何も日本舞踊にかぎったことではナイ。もっと近い視点を設定すれば、生活祭事のうちで盆踊りの輪などに、ひょいと飛び込んで踊るさいも、やはり、そのカタチの美的な優劣さは現れる。たぶん、踊っている女性、男性は、ふだんよりも美しくみえたにチガイナイ。盆踊りの時間や空間が、男女の恋愛の場となるのは、それがハレの場で、一種の無礼講であったからという理由からだけではナイ。「いなせ」「しとやか」「あでやか」などと、その姿(身体)に対する日常からの変貌があったはずだ。そこでは、単に労働の道具でしかなかった手や足が、ナニかチガウものに変容する。これは人間に特有のものだ。人間以外の動物は、おのれの身体の変容を発見するということはナイ。この場合の「発見」は、ちがったカタチで了解し、それと関係するということだ。この手や足を創りなおすという営みは、身体全部に比してみれば、さほど困難なことではナイような気がする。しかも、手と足の新たな創造で、いかにも身体全部が変わったかのようにも、感じられるという特典付きだ。

2010年1月26日 (火)

劇、その身体・03

同様に「勘がいい」「勘が悪い」というのは、本質直観(意味直観)の善し悪しをいうのではナイ。なぜなら、およそ演劇における身体表現というのは、心的表出と形象表出のVektorにおける〔価値〕作用を重要視するからだ。いいかえれば、事実と意味だけが表現されるのでもなければ、それを観客に伝えるのでもなく、観客も、また事実や意味の他に、その価値を観て取るからだ。では、演技者(役者)は、その「勘どころ」(非直観)を何処で会得したのか。またそれが、観るものをして「勘どころだ」と認めさせるものは、何なのか。これを前述したように「類」としての幻想であるとするならば、それは、『劇、それ自体』で論じたように、「類」の歴史的発現ということになる。そういうふうに「勘」を措定すると、「勘がいい」「勘が悪い」のは、固有の個人史からきているといわざるを得ない。個人史からきている以上は、この「勘」という非直観は、「しかとつかむところなけれど、しかと力強く働くもの」であるに関わらず、鍛練による習得が可能なものということになる。しかし、それは、身体というものが、創れるものであるということを意味すると同時に、創りえぬものであるという、両義性を示している。個人差というものが存在する以上は、そういう両義性は免れない。私たち(あるいは演技者)が演劇における身体の問題で苦慮するときは、おそらく、この両義性を前にしての、自らの身体へのアンビバレントな思案以外にはナイ。

2010年1月25日 (月)

劇、その身体・02

「類」という概念から身体を考える手順として、「直観」というものにふれてみたい。フッサール現象学では、この「直観」を扱う。ここでは「直観」は「事実直観」と「本質直観」に分けられることになる。たとえば、いま、玄関のチャイムが鳴ったとする。この音を聴覚でとらえるのは知覚直観であり、玄関に出向いて、注文していた書籍が届いたことを確かめる視覚も知覚直観だ。この二つを事象的な感受の仕方である「事実直観」だとすると、「本質直観」が何に該るのか。鳴ったのがそろそろ来るかなと期待していた宅配のチャイムであり、届いたのが待っていた書籍であったと、その「意味内容」を受け取る「直観」だと思えばイイ。現象学では、これとは別に、「還元」のための方法としての「本質直観」もあるが、それはここでは考慮に入れなくてもイイ。演技者(役者)の舞台上での演技においては、この二つの直観(知覚直観と本質直観)を観客が観取して、認識する、というのは、まっとうな順序のようにおもえる。が、しかし、演技者(役者)の演技は、同じ役を別の役者が演じる場合、あるいは、ある重要なシーンでの、せりふも所作もナイか、極めて少ない場合ですら、演技者(役者)は評価されるし、観客はそれを観て取る。そういうことを「ここが勘どころ」というふうに、ふつうは表現されるのだが、この「勘どころ」というのはナニをいっているのだろうか。『勘の研究』(黒田亮)によると、「勘」というのは「非直観である」というふうに説明されている。「勘」というものを定義してているワケではナイが「しかとつかむことはできなくて、しかも力強く働くもの」というとりあげかたがなされている。その研究の深きに入っていくまでもなく、いまのところ私たちは、この命題で充分だ。なぜなら、演劇の身体というのはこの命題のように、しかとつかむことは出来ないが、たしかに、力強く働くものとしては、それしか持たぬからだ。そうして、この命題の心的な部分を支えるのは、たしかにそういうものが在るようだという「類」的な幻想だからだ。

2010年1月24日 (日)

原点への郷愁

衣装をプロに観への郷てもらうために、通し稽古をしてみた。演出助手がお休みだったので、プロンプなしの通しになった。つまり、せりふをとちったり、前後があやしくなったり、そういうのは無視、というか、こっちは知らん顔で、ともかく切り抜けて進めるというふうだが、これはアドリブでということではナイ。ad-libというのはもっとwitにとんだものだ。現場はなんとかして、続行のみを試みる。途中で止めるということもしない。こういうのは本番では観られないオモシロサがある。とはいえ、私が芝居を初めたころは(始めたという使い方もあるが)、こういうのがオモシロカッタのだ。・・・あるとき、私がまだ役者を演っていたころ、私が、舞台の上で射殺されるという場面にさしかかった。相手の女優の持つ拳銃はリボルバーで、火薬がこめてあるのだが、湿ってしまうんだよナア。ほんとは一発で仕留めるのが、一発めはカチャッという音だけがした。もちろん、私は死ぬワケにはいかない。ので、「どうした、そんなもので私が死ぬとでも思うのか」と、その相手役に詰め寄っていく。二発目、カチャッ。だが、この女優も肝の据わった女性で、慌てず騒がず、後ずさりながらも、なをも詰め寄る私に、三発目、やっと火薬が炸裂した。これは、スタッフをはじめ、他の登場人物もハラハラしたろうが、観客には、まったくチガウ、要するに演出の上でのことだという誤解のもとでの、迫真の緊張があったようだ。演劇には、稽古での偶然のいい出来はダメという、約定のようなものがある。もちろん、私はそんなことは信じていない。本番で偶然が起こるのだから、稽古にだって偶然はある。その偶然が偶然ゆえに再現出来ないということもある。しかし、そのほうが多いというだけのことだ。私にいわせれば、演劇などというナマモノに確率みたいなものを持ち込むほうがどうかしている。

劇、その身体・01

脳というのは、たしかにものを考えているのだが、脳は脳のことをどう考えているのだろうか。というのも、私たちが、脳のことを考えたとき、その脳は「脳によって考えられた脳」というところから永久に、はみ出ない。ということは、私たちが脳のことを考えるとき、考えられた脳というのは脳によって考えられたimageということになる。そこで、他者が私の脳を調べたりして、あるいは多数の脳を調べて分析し、統計をとったりして、脳というものはこういうもんだよというワケになるのだが、それはどうしても、私の脳ではナイのだ。同じことが、私たちの身体(カラダ)にもいえる。身体が、マルクスのいうように、自然の一部であるというのなら、私たちは自然を対象として観察、了解、関係するように、自然としての身体ともそうすることが出来るはずだ。ところが、そうならないのは、まず、私たちの身体というものが、そこにある現実性としてと、私の脳によってimageされている可能性としての、二重性を持っているからだと思われる。演劇における身体は、もちろん、この現実性と可能性としての身体にさらに働きかけて、ある虚構の身体を創るということになる。この手続きの複雑さ、面倒臭さ、錯綜したごっちゃごちゃが、演劇における身体(論)を難しくしているのだ。つまり、半分は先験的なものだが、半分は作為的なものだ。演技者(役者)は、視覚的、聴覚的(時間的、空間的)に、自らの身体を捉えていくのだが、前提として、それが半ばimageされたもの、半ば現実のものという制限を受けるため、いわゆる客観の拠り所を定めることが出来ない。さらに、創りあげた虚構の身体(=役)は、観客の固有の視覚と聴覚にさらされるという運命にある。ごっちゃごちゃというのはこのことだ。このごっちゃごちゃから、救済されるためには、私たちは、「類」という概念(共通規範、共同幻想)の普遍性を信じる他はナイ。 

2010年1月23日 (土)

シュレディンガーの猫、への試問・続

おそらく前述の試問については、こういう反発がなされるだろう「『シュレディンガーの猫』という思考実験は、そういう意味の実験ではナイ」つまり、そういう反発をする者は、量子力学の持っている不確定性を強くいいたいワケだ。だが、このブログにも何度か書いたように、実験というものに「観測者」を考慮するというのは、正しいのか。また、考慮するのであれば、どういう位置づけをしなくてはならないのか。まず、観測者から超能力者は省かねばならない(もちろんジョークだが)。リー・スモーリン『宇宙は自ら進化した』(NHK出版・野本陽代訳)でも「量子論は、研究対象となっている系の外にいる観測者にとって、特別な役割があるように思える」とあって、観測者と実験の関係を取り沙汰しているが、量子力学の実験においては、観測者は一切その中には入ってこない。観測者が実験に影響を与えるというのは、通俗的な解釈、あるいは、学者のあいだにもはびこる錯覚であって、量子力学の実験、測定は(数学的にではあるが、そうなるしか仕方がない)観測者とは無関係に「完全に記述される」ものだ。そこで、観測者が箱の中の猫を扱う場合、観測(測定)した結果のアトの関係だけが問題となる。およそ、実験(思考実験も含む)というのはそういうものだ。単に実験のための実験などあるはずがナイ。実験(測定)の結果を踏まえて、実験をしたものが、それにどう関わっていくかが次の課題になるのは至極アタリマエのことだ。そうして、ここで重要なのは、実験は(人体実験は別にして)非人間的なものだが、実験後に関わるのは人間だということだ。ここをthroughすると、科学や技術というものが、まったく人間とは縁のないもののように思えてしまう。べつにバラエティ番組に白衣を着たどこやらの教授が現れて、風船が飛んだとか、電気がビリビリきたとか、あのような宴会芸みたいなところまで実験を貶めなくとも、実験は人間のためにあり、人間はその予測をして、結果において、また試行錯誤を始めるのだ。生還した猫を抱こうが、息絶えた猫を抱きしめようが、問われるのは、つねに人間(性)であることは自明である。

2010年1月22日 (金)

シュレディンガーの猫、への試問

まず、「シュレディンガーの猫」という実験について簡単に述べる。ある一定の時間内に、二分の一の確率で放射線を出す物質があるとする。その放射線を感知すると、青酸カリが入ったビンのフタが開くような仕組みをつくり、これを猫と一緒に同じ箱の中に入れる。一時間後に箱を開ける。猫は生きているのか、死んでいるのか。放射線が出る確率は50%だから、猫は半分死んで、半分生きていると、いわねばならない。しかし、箱を開けたときは、必ず、生きているか死んでいるかのどちらかに決まっている。つまり、開けてみるまではワカラナイということだけを、この実験は示唆している。しかし、ワカラナイのなら、そのような実験はする意味がナイ。あるとき開けたら生きていて、あるとき開けたら死んでいるのだから、この実験には測定結果というものが求められない。実験を重ねていっても、確率は変わらないのだから、同じことだ。ほんとうにこの実験は意味がナイのだろうか。また、ふつうどんな物理学のホンにもあるように、その結果は観測者にゆだねられるしかナイのだろうか。私が考えるのは、この実験は猫が生きているか、死んでいるかという観測結果が重要なのではナイということだ。確率がたとえ、どのように加減しようと、問題は、箱を開けたときの、観測者と猫との関係にしかナイ。このとき、観測者は猫を生かすことも死なすことも出来ない。しかし、眼前の結果に対しては関われるのだ。このとき初めて、観測者と猫は「関係を持つ」ことになる。そんなことは量子力学(の確率論)とは無関係なことだと一蹴されるかも知れないが、量子力学において重要なのは、確率そのものではナイ。確率というのはただの数学的情報だ。その力学がもたらした対象世界について論じられなければ、猫のタマシイは浮かばれまい。

カツマvsリカ、たんたんたる感想

『勝間和代 香山リカ 激論350分』(朝日新聞出版)で、香山は「まるで日経vs東スポ」だと自嘲ぎみに対談前の心境を述べている。(ところで、カツマ1968年生まれ、リカ1960年生まれ、と、カツマのほうがけっこう年下であるというのをはじめて知った。同じくらいかと思っていたのだけど、そうかなるほどねえという気もした)。さて、日経対東スポのようにこの対戦をたとえてみるならば、「資本主義の夢よもう一度」対「資本主義の夢よさようなら」という図式になり、雰囲気としては「孔子儒教」対「老荘道教」てなふうかな。結果的に対談後にカツマは「これからももっとお話したい」と相変わらずの優等生で、リカは「もう話す機会はナイと思う」とカツマ主義には見切りをつけている。おそらく、リカのほうは、いつもの診療室で患者と交わされる問診と同じような、うんざりする気分に滅入ったのだと思われる。不遜ないいかただが、カツマが離婚歴二回(バツ2)であり、リカが未婚であるというのは、読んでいて、まったく同じことのように感じた。どっちも男性というものに対して、何かおおきな錯誤があるとしか思えなかったからだ。私は経済学の専門家でも、通でもなんでもナイが、カツマには、もちっと経済学史を学んでもらいたいと思ったし、リカには、先端流行の精神医学を口走る(この本の中には出て来なかったけど)のもいいが、自然哲学にも目を通してもらいたいと思った。私は両者の著作をなにもキチンと読んでいないので、まったく無責任にしかいえないのだが(今後も読もうとは思わないが)、カツマの「一人一人が、自分が幸せになるためにちょっとずつ行動して、それがまわりの人によりよい生活をもたらして、お互いの生活を幸せにし合うこと」という結論を信じられるほどのノーテンキでもナイし、「努力もできず、向上できなくても、人は生まれただけで、生きる価値や権利がある」というリカの甘すぎる、あるいは世間をなめたような姿勢にも首肯出来ない。こんな程度のものなら、細木数子の占いを信じて日々の糧に生きている人々のほうが、よほど善良なる庶民大衆であり、生活者だという気がする。その細木大センセーも、かつては屋台の店を引き、七輪で客に出す秋刀魚を焼いていたのだ(と、噂には聞くが)。デフレが懸念されているとマスコミは騒ぐが、マーケットでは野菜もその他の食材も高騰のままだ。これが、低賃金に追い打ちをかけているのかと思うと、定賃金労働者ではナイ私までもが、暗澹たる気分になる。世界経済では、中国がGDP(国内総生産)で日本を抜いたとかどうとかやかましくいわれているが、では、中国と北朝鮮とでは国民固有の心情にいかほどのチガイがあるのか、その政府の思想的指導力にどれだけ差があるのか。かたや著作権を度外視した製品が多く出回り、かたや偽札までつくる。一方、世界でもっとも貧しい国であるハイチでは、天災とその後の暴動で生活が壊滅している。この伝でいけば、政治家とカネがどうだかと、正義の(らしい)不毛なとしか受け取れないような国会をやっている日本は、まだ、私のようなものが生きていけるぶん、カツマやリカのお世話にはならなくてすみそうだ。

2010年1月21日 (木)

と、いう生き方

『いま求められている問いに答える、誰もが知りたいやさしい答』というのを新作の戯曲のタイトルとして考えたんだけど、いつ、どこに書けるのか、またまったく書けないで終わるのかはワカラナイ。私はこういう優柔不断なことが好きなのだ。「優柔不断・・・やさしくやわらかく、判断、断定、断行せず」、つまりはじっとしているという、生き方の方法のひとつだ。そうすると、動くのは、私以外のもので、それが個人であったり、集団であったり、なんだかワカランかったりするのだが、そっちのほうのVektorから、追い詰められてくると、今度は優柔不断は「臨機応変」に移行する。「臨機応変・・・機に臨んで(機会chanceを与えgiftられて、その変化、変容、変転に応じる」。たいてい、人間は追い詰められるものだから、ほんとうのそのひとの生き方の姿勢、態度というのは、そのときに、真なるものとして発揮されるはずだ。それがどんなつまらない選択であっても、五万とある選択肢の中から、ひとは、たった一つしか選択を許されない。ましてや、この生存、ひととして、この時代に存在するということは、私が選択したものではナイ。さらに、それが泣いても笑っても、3年で死のうが90まで生きようが、この一回限りという、これは悲惨ともとれるし、贅沢ともとれる類のものだ。出来るならば、私は、神も悪魔も、こんなふうには生きられなかったろうという、自分なりのニンゲンらしい生き方がしてみたいのだが、どうもそれはニンゲンにとっては生き方というより死に方としてしかナイような気がする。優柔不断に臨機応変、あれっと不断のうちに生まれていたので、優柔、優柔。では、と変に応じて、機に臨み去り行くべし、だな。

劇、その身体・0

この論考はおそらく連載というワケにはいかないような気がする。理由といえば、確固たる答や定義を持ち合わせないまま(未解決のまま)、まさに五里霧中での執筆になるからだ。なぜ、そんなに急ぐのかといわれれば、単純に時間の問題で、私には、もう10年かけて一冊の書籍を読むような怠惰で流暢な時間が残されているとは思えないからだ。・・・ともかく、私が(私たちが)「劇」において「身体」という場合、それがナニを示しているのか、いまのところを書くところから始める。「身体」というものの定義で、私がもっとも驚いたのは、たぶん三浦つとむさんの著書であったろうと記憶するが、「身体はヒトのカタチをしている」とあったところだ。これは単純にして明解だという気がした。さらに「身体はヒトのカタチをした自然である」とあったように思うが、このあたりは、マルクスの身体論だ。マルクスは、自然(環境世界)に身体を拡張させて、環界もまた、非有機的な身体とみなした。ここで「身体」は、自然界(環界)にまで解き放たれたのだが、と同時に「人間の肉体的および精神的生活が自然と連環していることは、自然が自然自身と連環している以外のなにごとをも意味しはしない。というのは、人間は自然の一部だからである」(『経済学・哲学草稿』)として、ひとつの縛りを与えた。というのも、「自然」という概念に対しては、どうしても「不自然」という観念がつきまとうからだ。よって、私たちはこの概念や定義を(こと表現においては)さらに拡張すべきだ。ここでいう「ヒトのカタチ」とは、事故や疾病、生まれつきの欠損その他で、四肢にハンディのあるもの、を含んで、脳ないしはココロ、脳そしてココロ、を含んだすべての身体を示している。そうでナイと、表現においての身体は語れない。また、そう規定することによって、はじめて、身体は表現として語れる対象となる。

2010年1月20日 (水)

眠れ、壊れたもの

塾のレクチャーで、題材を語ったが、ともかく、それが難しいのは、originalityを求めるからであって、originalityなんてのは、宇宙開闢のときにすでに出尽くしているとでも覚ったほうがイイ。・・・たとえば、自分の好きなコトバをみつける。聖書にはけっこういいコトバがあって、高校時代、私が好きだったのは、「明日のことを思いわずらうな、一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ・6-34)だ。このすぐ前にはあの有名な「みよや野の花、空の鳥」がある。世間に出てからは、もっぱら「蛇のようにさとく、鳩のように素直であれ」(マタイ・10-16)を座右にしてきた。もちろん、大嫌いなところもあって、『ヨハネ黙示録』はいまでも聖書には不要だと考えている。劇団を中心の活動のさなかにあったときは、「勝ち負けは兵家の常」というコトバを戒めにしてきた。これは「闘っていると勝ったり負けたりする」という意味に使うコトバではナイ。「勝ったり負けたりするのは闘っている証しだ」というふうに用いるのが正しい。私は「傷つく」というコトバがあまりにNarcisseなうえにsentimentalで好きではナイが、自分自身が壊れているromanticistであるゆえに、こんな世の中、世間にあって、マトモに闘ってみようものなら、壊れていくのがアタリマエのことで、遺伝的な病変はともかくとして、この不条理と、疎外と、擬制に、余りあるほどの反抗と闘争を試みたものの、心身が壊れていくのは、我が身に感じて慈悲の念を持っているつもりだ。とはいえ、真っ当な生活者としての生活に精進努力しているひとびとを畏敬もしている。そのひとびとにもまた、倒壊する心身があると同情するからだ。ただ、私は壊れることをおそれはすれど、厭わないという偏屈なので、適度に修復しながら生きていくしかナイ。思うに、パソコンが壊れたときほどには、自身が壊れたことについて、ひとは慌て騒ぎはしないものだ。

自由課題

今期伊丹の戯曲塾(想流私塾)の卒業発表のテーマを14年めにして初めて、「自由課題」というもっとも難しいものにした。理由は、今期の塾生は意外にも、毎度の課題(というよりお題程度)では、難しいものほど提出されたモノの出来がいいからだ。とはいえ「自由」というのはあまりに難しいから、レクチャーは「題材について」を語ってみた。まず、時事的なモノとして小沢一郎対検察、マスコミはなぜ小沢一郎が嫌いなのか、週刊朝日の今週号のようにマスコミはなぜ、小沢対検察についてホントウのことを書かないのかとか、そういうことは私にはどうでもイイ。勝手にやってりゃいいのだ。私が問題にしたのは、疑惑の金銭の少額さである。たった4億円じゃないか。映画の一本、低予算で撮れるかどうかだ。小沢一郎という政治家は、日本の民主主義がどんなものかを、おそらくはいまの政治家の中ではもっともよく知っているということに関しては、一目置いている。私の感想は以上だ。で、「自由」というものについてのレクチャーをしてみた。たぶん、日本人はこの「自由」というものについては未だに後進国(いまふうにいえば発展途上国、どこが発展してんのか知らないが)だ。なんなら、試しに街頭の庶民でもいいし、議員のセンセイにでもいい、「自由となんですか」と問えばいい。もっともらしいことしかいえないはずだ。キリスト教国においては、自由というのはハッキリしている。神の理性からの人間の理性の自立をいっているからだ。神などもたぬ日本人は、適当にお上とやりくりしてきた民族なんだから、自由なんていわれると困るのだ。現在、塾で師範をしているものが、塾生時代に最も困ったのは、お題が「自由」だったときだと、塾後の私と師範による三人の缶コーヒータイムでもらしていた。自由というものは、そのものが「課題」なのだ。

2010年1月18日 (月)

無我になるのもたいへんなのだ

実存主義の旗手であったサルトルも、70年代になると落ち目になり、晩年は印税(といっても、ふつう労働者の半分程度)と近所に住むボーヴォワールだけが頼りで、レストランにもよれよれのボロボロという着衣で現れていたそうだ。葬式の費用もなく、80歳には無一文になるという零落ぶりだったという(山田風太郎『人間臨終図鑑・Ⅲ』より)。実存で自由に生きるというのもたいへんだが、そうかといって、釈尊の説いた「無我」という生き方もかんたんではナイ。釈尊は「我執」を棄てて、他者(他人)との関係は慈悲であると、いいたかったのだろうが、慈悲という理のワカラヌものに対しては、豚に真珠、猫に小判が関の山だ。だいたいにおいて、東西を問わず、哲学者、宗教者、思想家の考えることは楽観にすぎるきらいがある。ヘーゲルの「絶対精神」も、キェルケゴールの「絶望の絶望」も、マルクスの共産主義も、バクーニンの無政府主義も、ハイデガーやサルトルの(一緒にすると、それはチガウと、いわれることは承知で括ってしまうが)実存も、世間に対して甘すぎるのではないかというのが、私の実感だ。「私の未来など知れたもんだからどうでもいい」てなことをいっても、「あんたはどうでもいいけど、こっちはどうなるのよ」というのが世間であり、たぶん、私の関係している「関係者諸氏」なのだ。せいぜい、そういわれないように努めてきたのだが、私の知ってることなんざ、氷山の一角で、没個人的に仕事や生活をしてきたワケではナイので、なにごとも思い通りにはならない。我を通しても我を無くしても、似たようなもんなのだ。「おまえだけが生きているんじゃないんだよ」とは、子供の頃から躾けられてきたコトバだが、これは「諸法無我」をいっているのではなく、真逆のことをいっているのだ。かくて、不可避にひとはひとに加担し、偶然にひとは世界に関係させられ、要するに路頭に迷ってしまうので、それなら、籠もっていたほうがいいやと、扉を閉じるというワケだ。「人間は青年で完成し、老いるに従って未完成になってゆき、死に至って無となるのだ」(山田風太郎)、シーシュポスが山頂に押し上げた岩が転がって、麓のなんだかをつぶしたり壊したりしてしまうことがある。おそらく、下山のさい、もし、一点でも憂鬱なるところが彼にあったとすれば、そんなぶぶんかも知れない。

2010年1月17日 (日)

劇、その演技・22

ここで「衣装」というものについて述べるのは、この論考の逸脱ではなく、真っ当なことだと思われる。ただし、「衣装」についてはいま、私にいえるのはごくわずかなことでしかナイ。ここまでの論考で用いた概念を使っていうならば、演劇の「衣装」は「服飾」とはチガウ。前者は〔可能性〕であり後者は〔現実性〕だからだ。だから、演劇の「衣装」は「身体論」として語られなければならない。かんたんにいうなら、演劇の「衣装」もまた対象化された「演技」の範疇に入るからだ。つまり、演技力としての論理を持たねばならない。これは、『劇、その身体』という項目が用意出来るときにまで、考察をすすめたい。いま、おぼろげにワカルのは、ジェンダー論(を、たぶん、誤読している輩が述べていることなんだろうけど、というのも、私自身、あまりその点については考えたことがナイので、そういうしかナイのだが)女性がスカートをはいていることに敏感なのは、異性である男性ではなく同性である女性ではナイのかということだ。なにをいいだしているのかというと、舞台衣装において(多くは女優の衣装について)、一言居士の多くは女性だからだ。だから、私には、ちまたで(たぶん錯誤のもとに)流布されているような社会的・文化的性差別として、舞台「衣装」について論じることは出来ない。ただ、その「現実性(服飾)」を、どう「可能性(衣装)」に転換、変容すればいいのかという課題があるだけだ。

2010年1月16日 (土)

劇、その演技・21

演技者(役者)とその相手役である同じ演技者(役者)における「やりとり」にあって、摩擦がおこるのは、ホンの了解は同じだが、演じ方(演技)がチガウからだ、というもっともな判断はありえない。例を極端にとるならば、テレビにおけるタモリの芸(演技)の優れているところは、その「潔さ」だと思っているが、これはコトバを変えていえば「だれがなんといおうと」というタモリ自身の決意にチガイナイ。つまり、独断といえばそうだし、独断で他人に任せるといってもイイものだ。この姿勢、態度だけは、尊敬に値すると感服している。それは、タモリ自身の持つ「芸」における自信からくるものだが、この自信を披瀝せずに、ただ自らの懐の深さに自足しているところが、タモリのもうひとつの「芸」ともいえる。・・・稽古現場でおこる演技者(役者)どうしの摩擦は前述したように、当事者と同等程度の経歴、経験を持つ第三者があいだに入って調停することで収束することが多い。そんなものはなんの解決でもナイのだが、実時間という時間の矢のもとではありがたいことだ(もちろん皮肉でいっている)。あるとき、ある女優が、プロデュースの舞台の稽古の模様を「私なんかは大女優にみられているもんだから、新人の子がビビっちゃって、私とのかけあいで緊張するのよね。だから、いってあげるのよ、どんどん、やってくればいいのよって」と私にいったことがあるが、その稽古の様子は手に取るように理解出来た。つまりは、この女優の機嫌を損ねると、他の出演者に迷惑をかけるという配慮だけで、その新人は面前の自称大女優と接しているのだ。また、この自称大女優は、自分の懐の深さを誇って(威張って)いるだけだ。こんな稽古場は未だに腐るほどある。これからも腐るほど残っていって、ついには腐ることもなく廃るだけだ。・・・現場(稽古場)の摩擦は演技者(役者)どうしではすまない。スタッフどうし、スタッフと演技者、スタッフと演出家、演出家と演技者、どんな組み合わせも想定出来る。つまりは「ばかばかしい」ことだ。ただ、こんな「ばかばかしい」ことをやりながら、何故、「劇」というものに求心されてしまうのか、私たちはせめて、つねに、その原点にもどらねばならない。

ピカレスト・続々々々

ハンフリー・ボガードとローレン・バコールの初共演『脱出』(ハワード・ホークス監督、原作アーネスト・ヘミングウェイ)は、アクション映画ファンには物足りないかも知れないが、ボガードとバコールの存在感は、この映画の右に出るものはナイ。とくに傑出しているのはそのラストシーンだ。ネタバレとかいうのになるといけないので、書かないが、かの終幕は、いつか舞台でもやってみたいと思わせる。大概だけいえば、決死の場に、つまり生きてはもどれないだろうというところに、ピクニックにでも出かけるようにして、この映画は終わる。そのあまりの投げ出し方に茫然自失。いまの映画ならば、ここからくどく始まるのだが、それはやんない。まさにホークス監督の真骨頂だ。だから、この欄での主題めいたものと結びつけるならば、シーシュポスの下山も、そんなふうだったんだろうなと想像してしまうのだ。齢を重ねて、唯一の特権というものがあるとするならば、「反復」というものにこだわらなくてよくなったことだ。シーシュポスの刑罰もある意味では「反復」にみえて、「反復」を搾取されるところが、その刑罰たるゆえんなのだが、私にとっては、未来など、もう間近にみえているもので、これからのことなどとくにどうなってもかまやしない。これは投げやりにみえるかも知れないが、獲得した自由だとも抗弁出来るものだ。どこからもとやかくだけはいわれぬようにだけはしてきたつもりだから、アトは面々のお計らいとでもしておけば足りる。シーシュポスやボガードのようにはいかないが、躓き、引っくり返り、もん取り打って転がりつつも、ともかくは、「これでよしとするか」というふうに思いつつ下山している。

2010年1月15日 (金)

劇、その演技・20

「反復」というものを図式で考えるとワカリヤスイかも知れない(かえってワカリニクイかも知れないけど)。実数と虚数でつくられた複素数平面を思い描けばイイ。この場合、実数を実時間というものにすると、複素数平面で与えられたVektorが、反復を示していると思って差し支えない。「反復」はハイデガーがキェルケゴールから引っ張ってきたものだが、ヘーゲルの弁証法においても、運動の形態として論じられている(そこには、いまは立ち入らない。ただ、唯物弁証法が「虚数」をどう扱うのかは、一度聞いてみたい気はするけど)。実数には時間の矢が存在するので、時間は実時間として前に進むが、複素数平面においては、いくらでも時間の反復が可能であるように思う。(このあたりは、数学者にいわせるとマチガイかも知れないが、概念的には、私はそういうふうに話をすすめる)もちろん、反復もimageの世界をもつが(これを観念のといってもいいし、思考のといってもカマワナイけど)対象識知のあるかぎり(つまり、相手役との対立、対峙があるかぎり)、演技者(役者)は相手役(それが複数である場合も多い)との、演技の行使のさぐりあいのようものから演技を創っていかねばならない。これは俗に「いき」とか「間合い」とか称されるが、もはやimageとはチガウ。日常と異なっているのは、相手役も自身も、ともに、現実的な言語を発していないということだ。「書かれた劇」としての「せりふ」は音声という聴覚として、両者のあいだを行き交う。そうして、ここでも、演技者(役者)の経歴や、経験年数や、人気度や、果ては所属事務所の力関係においてまでも含めて、ある「権力」によって、カタがついてしまうのだ。もちろん、演出家に裁定をゆだねるという行為や、「みんなで」話し合うといった共同制作という民主主義も顔を出すこともある。それは単純に方法論のチガイでしかナイ。ただ、ナニが欲しいのかというと、ある「客観性」が要求されているのだ。もっとくだいていえば、対立する(対峙する)両演技者が、互いに納得する妥当な答えが欲しいだけなのだ。これは単純ではあるが、現場仕事(稽古)における、もっとも面倒なところだ。そこで、私にいえることは、ともかく、どういう方法でどんな答えを出したとしても、それが正解であるとはいえない。というはなはだ、無責任なことになる。ただし、この無責任さ、未完成さには、創る側は責任を負わねばならない。その筆頭が演出家だ。なぜなら、演出というのは演技力(演技が対象化されたもの)なのだから。対象化されたものの価値を上げていくしか稽古の意味も目的もナイのだから。

ピカレスト・続々々

「耐える」ということは、道徳的にはある感動や共鳴、共感をもって受け入れられているが、かならずしも美徳ではナイ。「耐える」というのは、いってみれば憎悪を隠蔽した心的状態でしかない。「耐え抜く」というのはしたがって「憎悪の増幅」ということになる。というのが、私の通俗的美徳に対する異論だ。花田秀次郎と風間重吉が、敵役の悪行に、耐えに耐え抜くというのも、観客の私たちとともに憎悪を増幅させているのにすぎないのだが、彼らが耐えるのをやめて、その憎悪をバクハツさせるとき、一曲の主題歌に合わせて、雪の降る花道が二人のために用意されているのは、この憎悪を天誅に転換するための決意としての描写として、当然のことだ。スコラ哲学の「弁神論」は論理的に矛盾している。この世界を神が統治しているのなら、いったい大災害はナンの理由で起こるのか、という私たちの疑問について、弁神論では、神の御業は大きなもので、人間の未完成、未熟な理性では計り知れないものであるのだから、大災害においても、何か神の御業が働いているはずで、その善悪を人間の理性において判断はできない(してはならない)ということを「人間の理性」で考案しているのだから、自己矛盾に陥っているだけだ。シーシュポスは、自分に課せられた刑罰に対して耐えたりはしない。ただ、それを甘受、受諾して、黙々粛々と、岩を山頂に持ち上げるだけだ。下山の足どりは、そのご褒美でもなんでもナイ。当然である、だけだ。カミュのいう「不条理」が、「人間の存在が本質存在であるか、実存(事実存在)であるか」という問いかけを超えてしまっているのは、「いずれにせよ」というひとことでいいきれるものだ。『ペスト』における医師たちの働きがたとえ微弱で無力なものであったにせよ、医師たちは働かねばならない。大災害においても同じだ。それが神の御業であろうが、人間の存在がなんであろうが、いずれにせよ、ひとびとは黙々、粛々と、救援救助の活動をするのだ。そんな現場で「神が」というコトバを聞こうものなら、ただ、「引っ込んでいろ」と一喝するだけでイイはずだ。

2010年1月14日 (木)

劇、その演技・19

たぶんタイセツだと思われることを二つ述べる。一つは演技者(役者)が戯曲を了解しようとしておこなうことだが、戯曲という文字で書かれているものをコンピュータのようにそのまま識知することはナイ(余談でいえば、そういう点でチョムスキー生成文法というのはアヤシイ)。必ずimageとして捉える。これは唯物弁証法では、観念による二重化と称されている。二重化されるというのは、観念世界が実世界とは別に一つつくられて、自身も世界も二重になるということだ。このあたりまでは、唯物弁証法のお世話になってもカマワナイ。ただし、その世界はほんとうではなく、(あるいはハイデガーのいうような本来的時間性がほんものではなく)時計で計れる実時間が真実の時間であるというのは、唯物論の誤謬だ。というより、そのような時間性は、そのものの真贋を論じてもしょうがナイ。(また余談だが、科学哲学と称する宗派が科学以外には真理を認めないというのも一つの迷信にすぎナイ)・・・さて、関連してアト一つ。演技者(役者)は戯曲の了解や、関係づけにおいて、必ずimageによって、自身を二重化し、その世界に参与させて、世界を吟味、観念的に体験させていくのだが、これは、演技者(役者)と戯曲との一つの循環(cycle)だ。関係づけにおいて、演技者(役者)は戯曲世界に入りまた自身の身体にもどりを繰り返す。ここから「演じられた演劇」へと入っていくときに、稽古という時間がある。このときに演技者(役者)の営為するのは、単なる循環ではナイ。相手役を含め、演出を含め、ある戯曲世界を具体的に立ち上げるための〔反復〕と称されていい循環を営むことになる。いったい何のために稽古なんざするのか、よくワカラナイで、せりふだけを暗記しているやからは、よくおぼえておいたほうがイイ。戯曲との了解や関係が可逆的なように、稽古における時間も可逆的なのだ。ここが、「時間の矢」を持つ科学と表現のチガウところだ。もちろん、実時間として、本番まで後何日という時間の矢もあるにはある。しかし、稽古時間という循環は、「反復」する(というかさせねばならない)。ここで反復というコトバの定義をいっておけば、それは「過去の時間にさかのぼって、それをとりあげなおし、意味をあたえなおす」ということになる。実時間においては、過去は喪失、忘却されるものだが、稽古時間において、それは、つねに先に進む手立てとして活用される。何のためにか。演技の価値を高めていくために他ならない。

ピカレスト・続々

「俳優は滅びやすいもののなかに君臨している」「あらゆる栄光のうちで、もっともひとを欺かぬものは、栄光それ自体を生きている栄光である」(『シーシュポスの神話』「劇」)と、カミュはそれこそ手放しで、演劇に賛美と羨望のコトバを繰り出す。なぜ、カミュがこと演劇に対して(自らも劇団を組織して戯曲も書いているのだが、私はここで、カミュの戯曲についてを云々いおうとしているのではナイ)、一章を設けて論じるほどご執心だったのかは、憶測するしかナイが、おそらくは、その俳優の生き方が、舞台の上だけのものであるという宿命に、感動を余儀なくされていたのではないだろうか。たしかに、俳優は、カミュのいうように三時間の舞台を終えれば、何処かの食堂で食事をしている存在だし(いやいや、居酒屋で、口説いた女にふられて、やけ酒で酩酊しているかも知れない)、最近では、マスコミの要請で、舞台を降りたアトの顔さへ創らねばならず、下半身に人格はナイなどともいっていられないのだが、まあ、それは趣味それぞれとして、カミュのように臆面もなくいわせてもらえば「演劇は青春であり、それゆえに、齢を経た演劇はnostalgieであるべきだ」。と私は最近になって思うようになってきたし、ついでにいうと「革命とはノスタルジアの表現である」(レイモン・アロー)という、若い日、ペンで線を引いた「故事名文句辞典」を先程も確かめたばかりだ。たしかに、フーコーのとらえたように、マルクスの哲学はヒューマニズムなのかも知れない。(というふうに、私は理解しているのだけれど、誤謬かどうかは気にしないですすめる)とはいえ、サルトルが、自らの実存主義こそは、マルキシズムの人間部分を補うところであると明言して、マルキスト宣言をしたのに対し、カミュは、不条理というのは自然に対しての人間の理性との関係の本質だと、どこかで疎外概念と重なるようでまた、まったくチガウような、曖昧ではあるが実感があるという理念を置き土産に交通事故で世を去ったのは、ニーチェが晩年の10年を精神病院(脳梅毒のためとも、そうでないとも幾つか説はあるようだが)で過ごしたのと同じように、またその哲学的意思を継承したようにみえるフーコーがエイズで他界したような、どこか芝居じみて、からくりに仕組まれたこのキミョウな世界の晩年の末席の末席に坐らせた気分を紅潮させる。とはいえ、稽古場で夢想することといえば、ここにいる俳優女優たちもまた、アト100年とは存在せず、私たちもいずれ考古学の対象となるのかネ、という皮肉な「栄光」の瞬きだけなのだが。

2010年1月13日 (水)

劇、その演技・18

「両者のおのおのが直接に他のものである、というだけでもなく、他のものを媒介するというだけでもない。むしろ両者のおのおのは、みずからを完成することにより他のものを創造し、みずからを他のものとして創造する」(マルクス『経済学批判序説』)と、一読するとなんのことだかワカラナイかもしれないが、これが「対立物の相互浸透」と称される唯物弁証法だ。ふつうなら頭をひねる(首を傾げる)ところだが、この「両者」というのを、互いの相手役というふうに読めば、経験上、まあなんとなくは理解出来るはずだ。たぶん、理解を面倒にしているのは「直接」「媒介」というコトバだと思われる。そこで具体的にいってしまえば、ここで直接にというのは、互いに「相手役」として面と向っているということであり、媒介というのは戯曲における役を通じてということになる。ところで、それがワカッタとして、このマルクスの考えはあまりに理想的にすぎる。どうしてだか、哲学者や科学者という種類の人々は、理想的にコトバを使う。(この場合の「理想的」というのは「良いふうに」というだけではナイ。「うまいこといいすぎる」といった、そんな感じだ)。私たちはまず、演技者(役者)どうしが、どんなふうに「対立」(弁証法の概念でいうところの)しているのかをみてみる。双方のやりとり「かけあい」がうまくいっている場合はいいとして、そうでナイ場合を想定してみる。すると理由は一つしかナイ。ホンの読み方がチガウのだ。役者どうしが対峙している場合、役者は互いに演技者(役者)+「役」という存在で向かい合っている。したがって、役づくり(これについてはアトでもう一度述べる)がチガウということ、演技者(役者)としての役の了解がチガウということで対峙しているために、ぬきさしならなくなっているだけだ。私が行き詰まったらホンに返れというのは、このことも含めていっている。くどいようだが、ホンを読む、つまり了解するとはどういうことか、再度展開する。おおざっぱにいえば、ホンには、ある時間の流れというものが存在する。もちろん、登場人物がおのれのむかしを談義したり、場面が過去へともどることもあるが、それは物語の順序としての方法にすぎない。つまり時間的な方向(Vektor)をホンというものは持っている。これを「了解」するというのは、とりもなおさず、そのVektorを了解することだ。それはホンに書かれた「事象-情報」を「描写-表現」として空間化することでもある。やや難しくなるかもワカラナイが、ホンの時間(これは実時間ではナイ)を空間的に変容させて読み込むことが、了解というものの本質だと思ってもらって差し支えない。そうすると、次にやってくる「役」との関係づけはどういうものになるのだろうか。たぶん、「何かに対して、どう〔関係〕するか、について特別にに自覚された〔関係〕に入り込むときに、〔関係〕は〔ちぐはぐさ〕となってあらわれる」(『心的現象論本論』吉本隆明)というちぐはぐさを漠然と経験するはずだ。これは、書かれた劇に対する演技者(役者)の「身体」の正当な反応だといっていい。

2010年1月12日 (火)

ピカレスト・続

「何故、ひとを殺してはいけないのか」などという問いは、キリスト教世界では意味をなさない。というか、答えはあらかじめ用意されている。「神の意に背くから」だ。誰も、ひとが死ぬことについて、ほんとうは倫理的にも社会的にも、生命体としても、どうでもいいことだと思っている。なぜなら、大事なのは、自分の死だけだからだ。たいていのひとびとは、他人の死など、どうでもいいことではないか、とさほど意に介していないハズだ。とはいえ、私の戯曲創作の弟子のひとりは、神戸淡路島震災で、知人友人の多くを失い、のち、棄教した。ほかには、元劇団員の男性は、第一子が未熟児で死んだとき、私に涙ながらに「もう俺は神さまなんか絶対に信じない」と訴えた。そうやってみると、ひとの死というものは神の采配とつながっているように判じられる。私がキリスト教に対して持っている畏敬は、ともかくも神が死んでみせたということだ。ニーチェもそのことについては言及している。「神は死んだ」と。ニーチェに対しては「ニーチェは暗い」とだけ述べたのが、チェスタートンだが、チェスタートンもまたキリスト教を(彼自身はカソリックであった)「神が神を疑った唯一の宗教」というふうに『正統とは何か』に記している。・・・前稿のカミュは、自殺について「熟考のすえ自殺をするということは(そういう仮説をたてることができないわけではないが)まずほとんどない」(『シーシュポスの神話』)と述べる。無頼派の安吾もまた私の読んだ限り、二度ほど自殺に傾斜している。一度めは、ジュネの『泥棒日記』を読むことで克服し、二度目は大量の睡眠薬を服用するが、効果がなく、彼のエッセーによると、ずいぶんの量の小便をして、スッキリしてしまったとある。・・・私はあるとき、ふと黙想した。「善人や悪人などというものがこの世に存在するものだろうか」「人格者などというものがこの世にいるものだろうか」「それがひとの生や死といかほどの関連性を持つのだろうか」おそらく、暴力団と称される「組」の中にも、それなりの人格者がいなくては組はまとまらない。なによりも下の者に敬意を払われる存在でなくては、上は務まらぬ。あるとき私は新幹線の車内で、オモシロイ経験をした。その車両には、私以外には、組関係らしい服装の人々が10名くらいしか乗っておらず(それがワカッタのは、打ち合わせらしきものの内容で、次の会合に招聘する団体の名前を幾つか口にしたからだが)、さて昼飯の時間となって、配下らしき者は、それぞれ駅弁を食したが、中枢の人物は配下のものが握ったらしい大きな麦飯のおむすびを食べはじめた。「長年のムショ暮しで、すっかりこういうものしか食えなくなってな」と話すのを私は聞いた。そのアト、幹部らしい者が私の席に来て、丁寧に「もし、よろしければ、離れた席に座っている者と、席を交替してはいただけませんか」というのだ。なんとまあ、律儀に、その者は、ポツンと指定席のとおりの席に座っていたのだ。またあるとき、私は、最終近くの新幹線の指定席に座っていたことがあって、私の他にはその車両には乗客は無かったので適当に座っていたのだが、途中駅から乗り込んできた乗客が、たまたま、私の席を買っており、私を糾弾して、車掌まで呼びつけて、これだから国鉄はダメになったと車掌に怒鳴り散らす、という情況に巻き込まれたことがある。この乗客も、帰宅すれば嫁の尻の下に敷かれる哀れな夫であるのかも知れないのだ。善人だの、悪人だの、人格者だの、おそらくそういう「仕分け」をしなくなったのは、それくらいの年齢からだ。

劇、その演技・17

演劇は「総合芸術」だ、などとよくいわれるが、なにわともあれ、一曲の戯曲から演技者や照明、音響、作曲、振付、衣装、舞台美術がstartするのだから、そう呼ばれてもべつにかまわないとして、私にしてみればこの「総合芸術」というのは、総てを合わせるということで、力強い統合性を持った芸術というよりも、船頭が多い船に乗ったような、実に面倒な仕事になったことも多い。だから、私は出来るだけ、徒党を組めるような面子を保持して、いわゆる「北村組」で仕事にあたれるようにしてきた。で、教訓。芝居をつづけるなら、役者よりもスタッフをタイセツに(重要視)したほうがイイ。演技論にもどる。・・・演技者(役者)がひとりの場合は特殊なことで、ふつうは複数の役者が舞台に登場する。戯曲も複数の役どころで書かれている。そこで、「かけあい」と呼ばれる会話が複数の演技者(役者)によって行われる。この場合、せりふは戯曲にアルのだから、相手がナニを語ってくるのかは周知、承知、のうえだ。これは楽にみえて存外、難しい。演技者は最初に戯曲を了解するときに、当然のことながら、相手役のせりふも読み込むのだから、相手役のimageも勝手につくってしまっている。ところが、相手役がそのimageどおりにせりふを喋ってくれるかというと、ほとんど、そうではナイ。これは相互のことであって、どちらに責任があるということではナイのだが、どっちも自分のimageしたほうが正しい(というよりも依拠している)うえでのやりとりだ。そうすると、演技者(役者)は、相手役のせりふの感覚にしたがって、自身のせりふの感覚を引っ込めるか、相手に引っ込めさすか、いずれかを選ばねばならなくなってくる。経験者においては、そんなことはアタリマエのことだろうというふうにとられるかも知れないのだが、こういうところで、いわゆる「なあなあ」の妥協がまかり通っているのが現状なのだ。妥協するならば、妥協することについての正しい納得、が必要であり、どう正しく納得するかについて、もう少し論じられてもいいはずなのだが、たいていは、何らかの力関係でthroughしていっているのを「なあなあ」というのだ。この演技者(役者)相互の関係を唯物弁証法でいうと、「対立物の相互浸透」という翻訳に出くわす。これはナンのことなのか、読んだだけではワカラナイ。対立というのがあたかも敵対しているようなニュアンスを持っているし、相互に浸透するというのが、ワカラナイ。何がナニに浸潤していくのだろうか。私はこれを「関係の循環その1」というふうに読み替えて理解している。つまり弁証法の「対立物の相互浸透」「否定の否定」「質量(量質)転化」をすべて、自分なりに〔循環〕という概念で把握しているというワケだ。そこで、演技者(役者)どうしに生じる、対立、融合、分裂から角逐までを、この循環という概念で観ていく。

2010年1月11日 (月)

ピカレスト

これから記すことは、すでにスコラ哲学などでは慎重に考察ずみのことかも知れない。あいにく私はその方面には詳しくナイので、多くは知らない。スコラ哲学は教養程度でいうなら、「神」の哲学だが、その存在の有無を問うものではナイ。スコラ哲学では「神」の存在は前提となっているからだ。だから、「神」とはどういうものかを哲学する学問だ。私が知っているのは、神学にアリストテレス哲学が融合したものだということくらいだ。・・・あるとき、私はぼんやりと思考したことがある。「もし神が存在するのなら、悪魔も当然、存在しなければならないはずだ」これが第一命題。「もし神が全能であるのなら、神は無神論者で在るという存在にもならねばならない」これが第二命題。「もし神が善で悪魔が悪ならば、人間の営為(の責任)は善は神に、悪は悪魔にゆだねられることになるので、人間には本質的に責任というものは存在しない」これが第三命題。・・・私はまたあるとき、漠然と考えたことがある。「この人生というものが、創造主のギフトであるのなら、死というものに向っての道程は、いいかえれば〔刑罰〕のようなものだ」「生まれて死ぬまでの時間の中になんらかの生きる目的を見出せないならば、人生を支配しているものは虚無である」・・・まだ実存主義の残存があった頃(高校生あたりだったか)、私はサルトルよりも、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』にだけは影響された。〔真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのだ〕から始まり、ガリレオの例を持ち出して、彼が火刑より自身の信念を棄てたのは賢明であり、地球と太陽と、どちらが中心かなどは、取るに足らぬことであると論じ、おのれを殺すとは「苦労するまでもない」とと告白することだ、といいきる姿勢には、震えたものだ。この震えは、生活者となったいまでも、「〔生活に〕苦労するまでもない」といってしまえば通用する。原口統三の『二十歳のエチュード』は自作『ヴァイアス』によっていちおう越えることは出来たが(これも積年の課題だった)、カミュの投げかけた課題は、近年いよいよ増していく。・・・私たちの〔生〕において、それがシーシュポスの刑罰のごときものであるとしたら、カミュの描いたシーシュポスと同様に、下山するとき、転がって麓に落ちて行った岩をみながら「いいんじゃないの」とひとこといいたいのも、同じだ。刑罰は岩を麓から山頂に持ち上げることで、下山するあいだは、解放の境地にある。なかにし礼『時には娼婦のように』では、~ばかばかしい人生よりばかばかしいひとときがうれしい~と歌われる。たしかに人生はばかばかしいものだ。とはいえ、前世紀の中国(たとえば殷王朝)の奴隷のように、妲己によって考え出された悶死必絶の刑罰で虫けら以下に殺されることもナイ。あれも人生なら、これも人生。どのみち贈与であるのなら、虚無に供物をささげるごとく働きもするし、虚無に抱かれて眠りもすればイイ。善悪は神と悪魔にまかせておいて、こっちは無責任を決め込むだけだ。シーシュポスもまた、下山するとき、その責任の無さに、足どりは軽かったにチガイナイ。

劇、その演技・16

ずいぶん前になるが、筒井康隆氏が自身の戯曲(筒井さんの小説はすこぶるなのだが、戯曲は概してつまらない)を上演するにあたって、「役者の方々は〔役づくり〕ということに一所懸命になられるが、言語感覚というものをもっと大事にして頂きたい」と、まあ、これは苦言といっていい発言をされていた。たしかに、そうなんだよなと、頷けるところだ。かつてまだ役者がやれたころ、私は全7ステージの公演で、同じ役を七つの違ったcharacterで演じたことがあるが、役づくりというものがそんなに難しいものだとは、いまのいまでも感じたことはナイ。要するにコトバは戯曲に書いてあるのだから、そのとおりに語っていけば、たいていの役者の仕事は尽くされているのだ。では「役づくり」というのはナニか、というと、どう「演じる」かという工夫らしい。この期に及んで「らしい」というのも揶揄めいているが、なんのために演じる必要があるのかといえば、「書かれた劇」を舞台にのっけて、「演じられた劇」にするため以外に理由はナイ。舞台の上に脚本を一冊ひろげておくワケにはいかないから。・・・「書かれた劇」つまり戯曲の言語は、散文(小説、エッセー)の言語ではナイ。これはcategoryの問題だ。戯曲文学として読者であることも出来るが、こと演技者(役者)として戯曲を読むということは、そこに書かれたコトバを、さも、そこに書かれた登場人物が語るようにして語るという営為に基づいている。これがどこで、舞台へ上がる「演じられる劇」へと転換、変換、変容、されるのか。くどいようだが、もう一度、順序を別の視点、べつの表し方でたどっていけば、演技者(これは舞台に関わるスタッフも同様だ)はまず、戯曲を〔了解〕(理解、把握、読み込む、取り込む、どういってもいいのだが)しようと務める。つまりこれはinputであり、演技者(役者)はここはまだ戯曲という「書かれた劇」に向き合っている。次にその役なり、戯曲全般と自身とを(スタッフの場合はその技術とを)関係づけようと務める。この「関係づけ」は〔循環-cycle〕という試行錯誤の運動だ。(この循環という概念はそう簡単にthroughしてはいけない重要なところだ)ここに「書かれた劇」と「演じられる劇」の分岐点、中間点が存在する。そうしてやっと演技者(スタッフなども含めて)は表現(output)する、具現化するという「演じられる劇」に到達する。この運動は可逆的なものであるから、循環がうまくいかなければ、了解にもどることが出来る。「役づくり」というものがあるとして、それは、書かれた役と自身とを関係づける「循環cycle」なのだが、循環がうまくいかなければ、了解に、つまりホンにもどるべきだ。というのが私の考えだが、多くの演技者(役者)は早くにホンを片づけて、演出を頼りに「役づくり」を始めてしまう。もっとも優れた演技力は、ホン(戯曲)であるのに。

2010年1月10日 (日)

劇、その演技・15

「戯曲(における登場人物=役)を批評的、批判的に読んで、感情移入をしないこと」てなふうに語ったのは、ブレヒトだったと思うが、私はこのひとには何の影響も受けていないのでたしかなことはいえない。ただそれが、「つまんねえ役だな」とか、「くだらねえホンだな」という読み方なのであれば、そういうことは、いわれなくてもフツウに出来ることであり、唯物弁証法を演劇理論に導入したかどうかなどという問題ではナイ。つまらない役なら降りればいいし、くだらないホンならやめればいいだけのことだ。それでもやるのは、おそらく演技者(役者)の経済状態の問題でしかナイ。ただ、やった以上は、毀誉褒貶、羨望蔑視、というこの難しい四文字熟語には耐えねばならない。劇作家の本谷有希子が、中日(東京)新聞の朝刊(いつだったかナァ)で「群れるより孤高を」てなことを声高に述べていたが、えらく古くさいことをいう若い劇作家だなあと、拝読した。彼女が劇団というものをつくらないのは、孤高でありたいということより、面倒を避けたいだけのように思う。戦国の武将は孤高だったから、憧れのマトになる、というのも、大きな錯誤だ。軍団を率いる長が、孤高なんてことを考えるワケがナイ。孤独というものは、資本家であれ、労働者であれ、金持ちであれ、貧乏人であれ、男女の性別、国籍を問わず、猫にも犬にも、天下分けへだてなく存在するもので、そうありたいからそうなるものではナイ。彼女のいう孤高というものが「私だけは、ほかのひととは違うのよ」という類のものであるなら(そんなふうにしか読めなかったが)、生涯、それに耐え抜けばいい。年取ってから「若いころは私もとんがっていてさ」なんてことはぬかさないでもらいたい。「群れる」というのは案外(少なくとも彼女が考えるより)難しいことだ。西村晃(『水戸黄門』二代目、第13シリーズより)は集団での演劇を「徒党を組んで悪事を働くというくらいの意気込みでナイと出来るもんじゃナイ」といっているが、私は経験的には、そのコトバに首肯する。とはいえ、本谷のいうように、孤独の高みというのもワカラナイでもナイ。ただし、これは拘泥すると、キチガイになるおそれが多分にあることは否めない。・・・ひとのことは、それこそ置いといて、戯曲を読むという営為から演技は始まるのだが、それが何のためにかといえば、「書かれた劇」を「演じられる劇」に転換、変容するためになのだが、私たちはいままで、それを個人的な演技者の営みとして扱ってきた。ところで、多くの場合、演劇というものは、複数の役者で成り立っている。では、自分以外の演技者のことを、どう勘定に入れればいいのだろうか。

2010年1月 9日 (土)

劇、その演技・14

もし、「感情の記憶」や「五感の記憶」が重要なものであるのなら、年齢(経験)を積み重ねるほどる演技力というものが増幅してこなければならない。これは奇妙なことだ。また、戯曲(の役)と演技者という者を比較するなら、役は否定しにくい。(チェーホフの『かもめ』でトリゴーリンをオカマにすることは、ともかくは出来まい)そうすると、もっとも信頼しなければならないはずの「私自身の固有性(個性)」を否定せざるを得ないのは当然の帰結だ。このあたりがなぜ、逆に変に思われるのか、それは、演劇が、いささか迷信みたいなものにいまだに依拠されているせいだ。ストラスバーグによると、「役者の存在は、その自己ぜんたい」で「その肉体、その精神、思考、感情、感覚、想像力、誠実性、意識をかねそなえたぜんぶなのだ」(『メソード演技』エドワード・D・イースティ、米村晰、劇書房)というふうに、とくに彼自身だけではなく、この国(外国の諸事情は知らんので)では、演技者(役者)の人格というものが、なにか、戯曲、脚本(scenario)の役と関係があるのではないかと思われているフシがある。これは「むかし兵隊、いまテレビ」(むかしは兵隊になると一人前だったが、いまはテレビ出演すると一人前に思われる世間の風潮をいう)といみじくもいわれている俗説にしかすぎない。だいたい(例外はあるにせよ)人格者などという者を、私はこれまで演技者(役者、その他)の中に観たことはナイ。また、そういう人間はこの業界では生き残れない。せいぜい、自分の経験(経歴)で幅を利かすか、ギャラの高低で格差を重んじるか、人気(テレビでいうなら視聴率、映画なら動員数)の多寡で威張っているか、という程度のものだ。踏ん反り返って、脚本の自分のせりふや他人のせりふにまで注文を入れてくる輩も始末に終えないが、縮こまって、稽古(撮り)がうまく進行しないのは自分のせいではないかと、ビクビクしているのも考えものだ。思うほど、たいしたことをしているワケではナイのだ。シンデレラの役をやろうが(もちろん、その王子さまであろうが)、それは物語の中だけだ。ヘレン・ケラーをやったから実力派などと自惚れないほうがイイ(譬えであって実際の女優をいっているのではナイ)。

2010年1月 8日 (金)

劇、その演技・13

スタニスラフスキー・システムを持ち帰ってアメリカ流に構築したリー・ストラスバーグの演技術には、systemの代わりにメソード(メソッド、method、方法)という名称が用いられている。ここで主張として強調されているのは「五感の記憶」「感情の記憶」というものだが、私からいうならば、これらはすべて「悟性」として扱えるもので、とりたてて重要なものとは思えない。この「記憶」と称されるものは、むしろ「観察」としたほうがいいように思う。なぜなら、記憶は固有のものだからだ。ここで、アクターズ・スタジオの教えにそって、感情というものを演技力として用いるのは、ずいぶんな錯誤をまねくようにも懸念される。演技者(役者)はその「役」を演ずる場合に、ことせりふを音声として発する場合、どうしても、音声に感情を塗布(付加)してしまう。これには理由がある。そうしたほうが、演技者(役者)自身にとっては、手応えがあるからだ。くだけていうならば、演じているという実感がするからだ。私たちは「個性」というコトバをあまりに無前提に用いている。(このコトバは否定的には「個性的な顔ですな」てなぐあいに、揶揄するときに、苦笑いを含めながら使われもするけれど)。いってしまえば、各人に各様の個性があるのは、アタリマエのことだ。記憶の固有性をどう使うかは演技者(役者)の演技力のひとつにしかすぎない。バルカン星人でもあるまいし、感情の制御(control)など、そう出来るものではナイ。また、他人の感情など、たぶん、私たちは観たくもナイ。もし、感情を刺激する必要があるのなら、それは、演技者(役者)のではなく、観客〔の〕だ。能楽の面(おもて)が何のために存在するのか。観ようによって、如何なるようにも観える、というのは通俗的な解釈で、能面の目的は、演技者(役者)のあらゆる感情面を封じ込めるために存在する。そこでは「個性」というものは排除される。演技者(役者)は個性(固有性)というものをいったん棄てなければならない。なぜなら、個性(固有性)へのこだわりが、もっとも疎外されるものに近いからだ。

2010年1月 7日 (木)

劇、その演技・12

「演技」が現実性であるのに比して、「演技力」はそれが抽象的であるゆえに可能性であるといってもイイ。この演技の現実性は、役の虚構とは関係ナイ。腹も減るし、喉もかわく、動けば汗ばむ、息が上がる、といった現実性だ。演技力はそのまま表現されるものではナイから(表現されるのはあくまで「演技」だ)演技者(役者)のpotential energieとして存在するゆえ、可能性としてみていいが、それがすべて可能であるという保証は何処にもナイ。これは食ったものがみな栄養になるとは限らないのとまったく同じだ。したがって、非可能性、不可能もまた抽象的には演技者(役者)に取り込まれる。ここで、おそれを知らずに深入りするとして、歌手といわれる人々(もっと具体的にいうならジャニ系の若いひとなど)が、いわゆるうまい演技をみせるのは、なぜだろう。彼らは演技の勉強、学習などまったくしてこなかったのに、簡単に「役」を演じてしまうようにみえる。それはもちろん、この稿の論理展開でいえば、演技力があるからに他ならない。演技力は役者だけに備わるものではナイ。それだけで充分のように思うが、さらに詳細に述べるならば、歌手たちの聴覚というものが、優れているからに違いない。この聴覚は、譜面の読めない現在の歌手たちが、どうしても持ち合わせなければならない、一種の鍛練された技術だ。聴覚はアナログな情報だから、歌いはじめたら後戻り出来ない。これは瞬時に場面に適応していかなくてはならない演技力としての能力と同じだ。役者の多くが、積分的に役づくりというものをしていくのに比べて、歌手の人々は、微分的に役づくりをしているはずだ。ドレミのドの音は必ずドの音なのだ。ミファソがあってのドの音ではナイ。「俺さ、好きなんだよ」「あら、私もよ」というせりふのやりとりがある場合、役者はそれを積分して(さまざまに積み重ねて分類してといったらワカリヤスイ)判断した結果を演技として表現するが、歌手の場合は、その一瞬に生じた感性だけを信じるという微分(自分と役の接点を限りなく縮めていくという微分方程式)という方法をとっている。これは、伴奏される音楽と歌手との関係から会得したものだ。曲が♯すれば♯するしかナイ。♭するのはマチガイだ。これを聴覚として演技力とする。これは、演技者(役者)が、戯曲、シナリオ、などを視覚(デジタル情報)としてinputするのとは違う。デジタルが新しくて、アナログが古いなどということは通俗的な迷信にすぎない。形式的には、戯曲はデジタル(視覚的)なものだが演じられる劇はアナログ(聴覚的)なものだ。形式的と冠をつけたのは、心象表出と形象表出におけるimageは必ずしもそうではナイということに配慮してである。

2010年1月 6日 (水)

劇、その演技・11

拙稿(ブログ参照)『貨幣と演劇』においては、「貨幣」というものを「演出」というものに置換してみた。私の未熟さもあって、いささか難解な論考だったかも知れない。ただし、私の中ではスジは通っている。演技者(役者)に演出が必要なワケは、前稿に記したように、それが、あたかも貨幣のようにして、疎外の打ち消しとなるからだ。この点は先にまわして、演出というものに触れれば、論理の進み方としては、それは「演技の対象化=演技力」の外からの力ということができる。したがって、演出というのは「演技力」への扶助、援助、生産に加担するVektorであるといえる。もちろん、演出そのものを表現であるということは出来る。ただし、それは演技表現とはまったくチガウものだ。これをはき違える、あるいは気づいていない、または錯誤している、なおかつ無知である演出家など、数多、存在することはいうまでもナイ。そういう者たちは、演技者(役者)に対する指示、方針、感想、批判、を、演技指導というものと勘違いしているだけだ。そういう演技指導などはあってもなくても、演出家の趣味の域をこえるものではない。また、悪しきは、単なる権力として働くだけだ。演出というものは、演技力として、演技者(役者)の演技の対象化されたものだということは、知っておいたほうがイイ。ここでも、演技者(役者)と演出家のあいだには、循環が生ずる。これを弁証法ととらえても、反証主義ととらえても、現象学的な還元ととらえても、いっこうにカマワナイが、いえることは、この両者の合力が、必ずしも良き方向に向かうとは限らないということだ。それは一つの前提として、覚悟するか、諦めるか、するしかナイが、手筋をさぐっていくことは可能だ。稽古というものは、そのために存在する。

2010年1月 5日 (火)

劇、その演技・10

高校生のころは、「概念」というコトバがなんのことだかもワカラナクテ、難渋した。先輩もまた首をひねるのだった。面倒なことをぬきにしてその意味をいっておくなら、単純に石は固体であり、水は液体である、ということにすぎない。それ以上は学問分野における諸々の共通認識となるので、踏み込んでも仕方がナイ。ところで、「その意味」と書いたが、この「意味」というコトバの意味もまた、単純に共通規範として使われる場合や、言語の「意味」を規定するものとして「創られたカタチに結びつき、そこに固定された客観的な関係」(三浦つとむ『日本語というのはどういう言語か』)や、ソシュール言語学において「ほかのものがそれではないという差異」などがある。「形態」ということになると、たとえば「山」は文字であるが、これを△として、それに山という意味をもたせれば、それが形態だ。これは「川」を〓と決めればそうだし、「音波」を~とすれば、それでいいのだが、誤解されぬようにいうなら、形態は記号のことではナイ。記号は単純化されているが、形態はそうではナイ。たとえば、神社のしめ縄もひとつの形態とみることが出来るが、それは記号ではナイ。もちろん、記号論者によれば、すべては記号であることになるのだが。・・・意味に、価値という概念を対置させたのが、吉本隆明さんの『言語にとって美とはなにか』における「指示表出=意味」と「自己表出=価値」であり、この発想はマルクスの『資本論』の、相対的価値と等価価値の分別から得られている。ということで、私のいう「心象表出」と「形象表出」も、そこにヒントを得たものだ。でと、この論考の最初に「演じる」と「演技」とは違うことを述べたが、それを拡張させて考えると、「演技」と「演技力」は違う。もちろん、ここでは実力の差をいっているのではナイ。マルクスが「労働」と「労働力」を分けたように、それを分けてみる。マルクスはこの二つの違いから「剰余価値」を導き出し、資本家による労働者の搾取を指摘したが、それはここでは、考えなくてもイイ。ここでは「労働力」のほうに注目する。「労働力」というのは「蓄積され・対象化された」労働のことをいう。これを「抽象的労働」といい、商品価値はこの労働力によってその多寡が決定される。貨幣も商品であるから、簡単にいってしまえば、賃金というのは「労働」から生まれた(対象化された)「労働力」としての結晶のようなものだ。これを演劇に置き換えると、演技力というのは、自分自身がつくりあげたものではなく、他の多くの対象化された生活や表現を資料として自分に取り入れたものだ。演技者(役者)は、この「演技力」を用いて「演技」(マルクスでいうと「労働」に該る)するのだ。だから、美容整形で顔を変えるのも、演技力であるといって差し支えはナイ。戯曲と向き合いながら、その写像を循環させるのは、演技力を行使して、戯曲を読む、読んだもので役を創るという営為に該る。これは循環であるから、スタニスラフスキー・システムの追従者(久保栄)のいうように、まず「役の内面を体験する、自分向けの仕事」があって、次に「体現の過程における、自分向けの仕事」があって、さらに「役向けの仕事」というふうに、演技者(役者)の営為はscalarや順序ではナイ。あくまで、それはVektorであり、写像のcycleだ。つまり、ニュートン力学でいうように、速さや加速度がなくても、向きがあれば「力」となるように、演技力というのは、対他(環境世界からの-戯曲もそれに含まれる-input)と対自(自分自身の、心身、音声を自分自身にinput)と方向を変えながらの即自(自分自身を役に創り上げる)力であり、演技者(役者)はそれを演技として表現(output)することになる。ここで、運動の第二法則に倣っていうならば、「演技力=素材×循環」ということになる。掛け算であるのは、演技力が微積分の要素を持つだからだ。と、形式的にはこれでイイのだが、この演技力には例によって「疎外」がつきまとう。おそらく表現(output)されるものが、疎外されたものであるのは、このへんにその原因がある。

2010年1月 4日 (月)

劇、その演技・9

「役になりきる」といういいかたを、私はずっと小馬鹿にしていたが、というのも、それなら死体の役はほんとうに死なねばならぬし、殺人者の役はほんとうに殺さねばならない、と嘯(うそぶ)いていたからだ。そうはいいながら、そういう私自身の応じかたも、どこかマチガッテいるという気はしていた。次によく使われだしたのが「役を生きる」というコトバだ。これはなんだかもっともらしくて、説得力も、迫力もあるようないいまわしなのだが、ここに現れているのは「役」というものに対する無造作な配慮だ。逆にいうと、「役」というものに対する問いかけが欠落しているのだ。おそらく私を苛立たせていたのは、その問題に違いない。「役」というのは戯曲において戯作者(劇作家・狂言作家)が「書いたimage」であり、演技者(役者)からみれば「書かれたimage」だから、それ自体が、外部(環境世界)に存在するというものではナイ。したがって、あやふやなものとして考えれば、これほどあやふやなものはナイ。試しに、それを書いた劇作家にその役のimageを聞いても、また、本読みとして読んでもらっても、劇作家自身が納得するようなモノは出て来ない。いうなれば「不完全」モノとみなすしかナイ。そうすると「役になりきる」も「役を生きる」も代入して読めば「不完全なものになりきる」「不完全なものを生きる」になる。とすれば、論理的な帰結としては、「役」というものは、創るしかしょうがないのだ。そんなことはアタリマエだという顔をしている輩には、コロンブスの玉子でも進呈しておく。論理というものには、面倒な手続きが必要なのだ。囲碁でいうなら、一度に一個しか石が盤上に打てないのに、石の連なりを読んでいかなければならないのと同じだ。そのような順序でいうと、演技者(役者)はともかく一度自身を否定して、役にVektorを向け、そこからの写像(f→)を自身に向け、ここで、役を自身に取り込むという、いま一度の否定を行うことになる。この写像は循環として、戯曲と演技者(役者)とのあいだで、繰り返し行われることになる。なぜなら、戯曲に書かれた役は、それ以上の情報も表現も持ち合わせないが、演技者(役者)は、戯曲とは違うところ、(自身の身体性、サブテキスト、など)から「役」に入り込むための表現や情報をinputすることが可能だからだ。ここは、演劇が、書かれた劇から演じられる劇に分岐するところだといってもイイ。演出(という貨幣・・・『貨幣と演劇』参照)が、いつの時点で入り込んでくるのかは、決めることは出来ない。

2010年1月 3日 (日)

劇、その演技・8

もう少し「表現=疎外(その克服、あるいは打ち消し)」についての論考をつづける。ここはプロにおいても、世間一般の通念においても、誤解や錯綜で、うやむやにされていると思われるのと、ここをうまく通過していけないと、どうしても次の一歩が踏み出せないような気がするからだ。「疎外」とその「打ち消し」をもっとも簡単に理解しようとするならば、マルクスの『経済学・哲学手稿』の「貨幣(市民社会における貨幣の力)」を読むのが手っとり早い。この稿は、貨幣と疎外について、シェイクスピアを援用しながら書かれているが、貨幣というのを何故、ひとが追い求めるのかを、きわめて単純明解に示している。ここで、私の読んだふうにいうとすれば、貨幣というのは、私的所有にして、かつ対象として、「ものを買う」という属性において全能であるとみなされ、その能力において、疎外というものを打ち消していける力を有する。もちろん、その貨幣によってこその疎外を論じたのがのちの『資本論』であることはいうまでもナイが、いまなお、勝ち組や負け組と通俗的に名付けられるのは、貨幣の所有如何によるレッテルであり、それがまた、一夜にして転倒するのも貨幣の全能さゆえと信じられている。・・・この「貨幣」というものに着目して、演出の存在を論じたのが『貨幣と演劇』なので、興味があれば、ブログを検索されればイイ・・・演技論にreturnすると、演技者(役者)の背負った「疎外」を解決(打ち消して)くれるのは、(直接な)貨幣の力ではナイ。たとえば、醜男がイケメンを演じることは、素材優先の表現としては無理な話だ。では、というので、美容整形を受けるとなると、ここには貨幣の能力が間接的に働くことになる。演技論といえど、美容整形の話も含めてしまうのが、この論説の低空飛行だ。同じような意味合いでいうならば、本膳料理を食わなくても戯曲は資料で書けるが、演技者(役者)がそうであるかどうかは、貨幣の能力による。もちろん、資料といえど、落ちているものではナイので、いったんは貨幣を対象にしなければならない。つまり交換価値としての対象物として貨幣を扱わねばならない。これは即物を否定して貨幣という対象を手にし、さらにそれを交換する(否定する)という弁証法でいうところの「否定の否定」という営為にあたる。貨幣があるにこしたことはナイが、なければナイで、智慧と工夫によってきりぬけなければ仕方がナイ。「私を私的所有出来ない」という在り方が「疎外」として表現に本質の属性であるならば、方法としては、この「否定の否定」を試みるというのが、演技としての技術のように思われる。どういうことかというと、ここで、演技者(役者)は「私」というものを否定するというVektorを用いる。これは向きとしては「役に近づく」ということだが、通俗的によくいわれる「役になりきる」というコトバはここに根拠をもつ。

2010年1月 1日 (金)

劇、その演技・7

「疎外」というコトバを今後も用いるだろうし、「表現=疎外」という等式に戸惑う読者も多いはずだ。「疎外」は、もともとはヘーゲル哲学の概念だ。ヘーゲルは人間の理性が思い通りに社会や自然に通用しないことをそう称した。ところが、フォイエルバッハはその理性そのものが思い通りにならないものだとして、それを疎外と呼んだ。これを継承して、マルクス-エンゲルスは、疎外の要因を社会に求めたのだ。ところで、私がこの論考で「疎外」というとき、それは人間という自然のものが、非自然として営為する場合に(といっても、ふつうそうなのだが)「私なのだが、私でcontrol出来ないもの」(これはたとえば脳や心臓などはそのたぐいだ)あるいは、私でありながら、その私が私をもっとも動きにくくしてしまう、といった縛りのようなもの、思いつつ、その思いが私にも他人にも伝わらぬもの、といったふうに用いられる。植物はナニも思わない。石も思考しない。水も流れるだけだ。ここに、この自然に疎外というのはナイ。ただ、非自然の生命体だけが、この疎外を背負うことになった。したがって、仏教(とくに禅宗)などにいうような「あるがまま」などという境地はまったくの蒙昧でしかナイ。そんなことは本質的に人間には不可能な営為だからだ。表現が疎外であり、その疎外の克服であるというのは、人間にとって表現は、ココロの自然な表出であるのに、それを成さんとすると、「いいたいんだけどいえない」という事態に陥るしかナイということと、さらにそれを越えていこうとする意思をいう。よって、ウィトゲンシュタインのいうごとく「語りえぬものには沈黙」などしていられないし、言語世界の限界が人間の限界などではナイ。それは限界ではなく、制限だ。制限は越えていける。それはあたかもニュートンが、ひとは無限にいたることは出来ないが、その方法(極限)を知っていることを発見したのと同じだ。ことは数学にも及ぶ。ゲーデルの第一、第二不完全性定理によって、数学の不完全性はあらわになったが、数学はものごとを考える優秀な武器であることは否定されていない。完全なものは完全を求める必要はナイ。それは、不完全なものに許された「その先」への希求だ。別稿にしようと思ったが、ここで横道にそれると、道元の至った世界観はスピノザのそれと相似形だ。仏性はこの世界そのものだから、正法(悟り)というものが逆にワカラナイ、ひとはみな仏の世界に在る、それを理解するために修行するのだから、修行はすなわち、悟りと同じである、という論理だ。しかしながら、ここで諫言、辛言しておくと、禅宗やその他の仏教もまた然りなのだが、人里を離れて、山奥や隠遁で得た悟りなど、ただのカッコウづけにしかすぎない。町や市場(いちば)に出て来れば、たちまちにして、霧散する。悟りなどというものは、自らが置かれた、その場所で得られぬかぎりは、なんの価値もナイ。そういうことがわかっていたのは、浄土真宗の親鸞と、臨済禅の一休だけだとしか、私の狭い学問の範囲ではいいようがナイ。・・・悟りなどには縁のナイ私は、本年も、ただコツコツと、この論考の作業をつづける。

還暦と子供

「歌の力」というよりは、NHKの力をみせつけんとした昨夜の「紅白」だった。60回の矜持にかけて、何がなんでもという姿勢はみてとれた。受信料不払いの私も、家で観た。この番組くらいは無料で放送すればいいのだ。肝腎の全員合唱「歌の力」は練習不足で力がなかったが、歌手のどなたもが、忙しいということは、この不況の中で悪いことではナイ。韓国の若者四人組は、誰の眼にも不真面目に映っただろう。仲間由紀恵が太ったことも、『トリック』から10年経ったことも、目や耳に残ったが、コンセプトの本音は還暦と子供だということは明らかで、ここに収斂していくまでに、ちょっと時間がかかり過ぎた。まだ脚本の練り方が足りない。懸念するのは、そのテンポの速さだ。老齢者のついてこられるスピードではナイ。パタパタとデジタルに過ぎていく演出には問題が残る。全体のアンサンブルもけして上手くいっていたとはいいがたい。とかく、演歌に対する演出がおさだまり、かつ下手くそだ。合格点はジェロの「海雪」くらいなのだが、一昨年と同じ歌であるのが悔やまれる。アトは、以前のを踏襲しているだけ。この不況に大勢の職員を抱えて、職員は高給をとっているのだから、金看板や学歴など背負わずに、せめて民放の3倍は学習努力したほうがイイ。白組の優勝だったが、いつもながら、和田アキ子の緊張感のある歌には感心させられたし、トリのドリカムも素晴らしかった。女性演歌歌手が不遇にみえたのは、けして私だけではあるまい。

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