劇、その演技・5
演技者にまずやってくるのは、戯曲の登場人物(character)との差異だが、この差異はナニをうったえているのだろうか。それは、素材に対する注文(order)のようなものだ。と、そういうと、まるでアリストテレスの質量(材料)と存在のことを述べているかのようになるのだが、アリストテレスにせよ、まったくハズレたことを哲学していたワケではナイ。かつまた、私のいわんとしていることは、それほど大仰なことでもナイ。たとえば、仏像を創るとして、ブロンズと木材と石像とでは、あきらかに素材の違いがまず視覚される。演技者(役者)が実体として舞台に立った場合に、視覚として識知されるのは、単純にそのようなことだといいたいのだ。これを唯物弁証法では「素材は表現に優先する」と定義している。「人間は本質に先立つ実存である」とサルトルは実存主義の流行をつくったが、これこそ、単純なアリストテレス批判であって、人間の存在というものが、「ガ、ある」ではなく「デ、ある」というものだ。しかし、演劇はこういった哲学とは違った時空のものだ。哲学を援用することは出来るが、そのまま用いることは不可能だ。それが表現であるかぎり、そうして、演技者(役者)自身の身体(外観)が実体として舞台に立つという条件がつきまとうかぎり、演技者(役者)は、そのcharacterを、戯曲から得た情報と戯曲の表現とを加味しつつ、そっちに近づけながら、自身に引き寄せるというVektorの合成を、演ずることの作業としていかねばならない。この作業こそが「演技」と称されるものだ。ここで、歌舞伎の世界などでは、長年の論議となっている、カタチかココロか、という視点を端緒にして、「演技」の存在を〔心象表出〕と〔形象表出〕という二つのVektorに分割してみる。
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