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2009年12月27日 (日)

劇、その演技・2

「演技とは、個々の具体的な生きた事実からはいり、自分以外の生きた人物になりかわること」(『久保栄演技論 講義』)。良心的に読めば、ここでは、人生経験と、それを活かした演劇における役への投入が述べられている。しかし、役を演ずることは、ハイデガーのいうところの「存在企投」(projectと英訳される。投射という意味で、現存在(人間)が、ある場所に自らを設定することにより、所有する視点と考えて大きく間違いはナイ)とは似ていて非なるものだ。久保のこの定義は、アリストテレスの考えた、質量(材料)と存在の在り方から一歩も踏み出してはいない。つまり、何らかの存在(役)を創るには、それなりの材料が世界に存在しなければならないという考え方だ。この考え方は意外に多く、いまでも、プロデュースという名のもとに、適材適役で行使されている。つまり、ある役者(演技者)に苦労をかけて役になってもらうより、その役に適していると思われる役者(演技者)を連れてきたほうが手っとり早いということだ。もちろん小劇場演劇ではそういう具合にはいかないので、それとは逆に、あて書きという、その役者(演技者)にみあった役を考えてホンが書かれるということになる。余談に飛ぶが、以前、ある喫茶店をテーマにして、数人の劇作家がオムニバスを書くにあたり、私も20分程度の一話を書いたが、それには、主役の歌が大きなかなめとなっていて、で、現実に、主役である女優がオンチであるということが発覚し、演出家が大慌てで私に連絡してきたことがある。これはなおしようがナイので、仕方なく演出家がホンを書き直して、まったく別の中途半端な芝居になってしまった。こういう観点からみれば、なるほど、適材適所が楽でイイ。劇団というシステムは、おおむね、それにアンサンブルのとりやすさを付け足したところがけっこう多いのだ。だが、これはすぐにアキられる。劇団の終焉は、そのものにアキてしまうか、女性(傾城)の問題か、経済の問題か、それ以外にはナイ。・・・私たちは演技を演ずる技術ということにした。そこで、「演ずる」という行為の構造に立ち入ってみたい。

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