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2009年12月 7日 (月)

劇、それ自体・7

「劇、それ自体」を心的領域に求めるということは、逆にいえば、〔劇〕という心的なものを表出-表現するため(そのものをとりだすため)に、戯曲という書かれた劇や演劇という演じられた劇があるともいえる。どちらも言語としての劇としての共通点は持ちながら、その身体性の表象(image)が異なる。展開すれば、前者は書かれた文字であり、読まれる文字であるが、その表象としての身体は、まったくの作者の想像=創作であることも、またある固有の身体を最初に特定しての(つまり、演じる者があらかじめ決まっている)身体である可能性をはらんでいる。いずれにせよ、ここには、言語(コトバ)と身体(カラダ)があり、その根底には心性(ココロ)があるとみなしていい。〔劇〕の心的表出が、コトバから初まったものなのか、カラダから初まったものなのか、と問い直せば、おそらくは人類がまだ言語(コトバ)を獲得していない時代に、原始的な劇の心的表出が、身体(カラダ)と原始的な音声に生じたと位置づけねばならない。なぜならば、ここで音声とは、唸りや叫びと同意であり、身体表現とは揺さぶりや蹈鞴(たたら-足を踏むこと)と同意で、ちょうど生後まもない赤ん坊が、意味のナイ動きや声を発するのをみるようなものだと思われるからだ。この赤ん坊の動きから察するに、その動きは、母親の胎内にいたときの連環として、あるいは羊水からまったく新しい環境へ産み出された断裂として、あたかもその疎外とその打ち消しに向けた、もがくような訴えのようにみえる。これは、芸術表現としての前衛舞踏、暗黒舞踏、コンテンポラリーダンスの優れた創作の中にもみいだされるものだ。それらはみな、「胎児の夢」のつづきを物語っているような気がする。

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