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2009年12月 4日 (金)

劇、それ自体・5

「書かれた劇(戯曲)」と「演じられた劇(演劇)」については、章をあらためて論じる。ただ、ひとこと誤解のナイようにいっておきたいのは、「演じられた劇」を〔現実性〕というのは、現在性(real time)のことでもないし、演者が現実(日常)の人間であるということも示していない。まして、それが叙事敵(realism)であるか幻想的(illusion)であるか、という論議とはまったく関係がナイ。・・・故人の哲学者、池田晶子は、さまざまなエッセーや論説を残しているが、終生の課題は「私とは何か」であることをさまざまなコトバで、かなり執拗に述べている。それに対する答えが彼女にあったのか、永遠の問題提起なのかは、よくワカラナイ。それは私が、そういうアポリアに強くひかれなかったのか、単なる私の怠惰なのか、あるいは問うても知れぬことに対しての諦念なのか、そのあたりの事情による。とはいえ、私は「表現」というものを考える場合、「私は世界(自然)の表現であり、世界(自然)は私の表現である)」という命題だけは提出した。(この場合の世界というのは、societypublicのことではなく、時間と空間のことだ)これは循環の論理のようでもあり、いささか狡猾な理屈でもあることは、承知している。しかし、〔私〕というものが〔世界(自然)の私化〕であり、〔世界(自然)というものが私の自然化(世界化)〕であり、この二つをつなぐ(あるいは紡ぐ)ものが「表現」というものである、ということから帰結として述べられているのがその主張であるということはコトバのとおりだ。(かなり悪文かな)・・・自然(世界)というものが私を表現する操作であるにしても、私が自然(世界)を表現によって操作するにしても、その表現は、当然のことながら、疎外という形態にある。つまり表現というのは「疎外」と「その打ち消し」を同時に持つという矛盾の中にある。この矛盾は解決はしないが、ひとは、それを克服しようとする。したがって、表現というのは、疎外でありながら、それを克服しようとする営みであるといってもいい。こういう渦中にあって、「私とは何か」と問うのは、私にはあまり問題になることではナイ。だが、「劇、それ自体」とは何かという問いかけも、似たようなものだと思う。興味のナイもの、に、とっては、数多ある演劇論と同じに並べられる駄弁にしかすぎない。・・・〔劇〕というそのものに近寄ることがむつかしいのは、〔劇〕そのものが、固有の状態や作用ではナイからだ。それらは戯曲や演劇と称されるものだ。では、その本質が状態や作用という唯物的、物質的なものでナイとするならば、〔劇〕は、ココロの表出の作用素ではなく、心的なものそれ自体と考えたほうが妥当だとおもわれる。

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