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2009年12月19日 (土)

劇、それ自体・・補

この論説は、私自身が納得したいがために書かれたものであるから、かなりわかりづらい点が多かったかも知れない。とはいえ、このブログエッセーの通常恒読者、約100~150名に対しても、できるだけ理解してもらうように努めたつもりだ。私たちは業界、ファンを問わず、演劇における「劇」ということの本質を無前提にして、それについて話したり書いたりしているのだが、それは換言すれば「劇」というのはナニかに対しての答をもっていないということになる。ずいぶんと以前から、私は私なりにこのことが気がかりであり、表現するがわとしての責任のようなものを感じていた。ぼやぼやしていたり、怠慢なせいで、ともかくいま、やっと、ひとつの答を取り出せた。ここでは、主に三冊の書籍を取り上げたが、この書籍の両隣には数十冊の書籍があり、何十回の現場があると思ってもらったほうがイイ。さらにいうならば、紆余曲折の思案、思考があったことはいうまでもナイ。もちろん、この論説は、私と一対一対応するものであって、異論や異見があってかまわないし、なにも私の関知するところではナイ。この論説の問いは、25年以上前に、「演技とはなにか」という、ささやか(で重大)な問いかけから始まった。何度も書くが、それに答えてくれる書物も思想もなく、それじゃあ、自分で考えるしかしょうがナイと思ったのだ。囲碁の名誉棋聖、藤沢秀行(故人)は、多くの碁打ちに影響を与えたが、そのコトバはふたことめには「他人の碁のまねをするな」だった。そうして、この無頼の碁打ちは、そのとおりの囲碁を碁盤に残した。それに倣うワケではナイが、私は私なりの「劇」についての答をともかくもみつけることが出来たことについて、やや安堵している。戯曲というものが、説話(物語)文学と日記文学との融和であるという『言語にとって美とはなにか』(吉本隆明)の視点はきわめて美しいものだが、それでは、その出所は奈辺にあるのか、という問いは残った。それを、素潜りで捜すような作業だったが、水底から、拾ってこられるものは拾えたと思っている。ほんとうは、クラモチくんが生きているうちに、こういうことはやり遂げて、彼に読んでもらいたかったのだが、みんな私の怠惰と弱さが悪い。そのときの情緒や気分や心情や趣味や趣向や人生観の違いやら、ただそれだけの批評や毀誉褒貶の弁がうずまく中で、あるいは、当世流行のismを振り回したり、便乗したりしただけの擬制的論述がまかり通っている情況で、なおかつ、こっちは素潜りで、深く静かに遊泳していく。このアト、読むのが面倒かも知れないが、このエッセーは『劇、その演技』へとつづく予定だ。

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