劇、それ自体・10
『脳髄論』(『ドグラ・マグラ』)にもどる。ここでは「脳は物を考える処に非ず」という命題が提出され、それに主要登場人物のひとりがインタビューに答える形式で、物語が進む。このアトにすぐ、『胎児の夢』という論文に入る。夢野久作が、どちらを先に思いついたのかは、ワカッテいないが、おそらくは全編を通して貫かれる〔胎児の夢〕が『ドグラ・マグラ』のテーマであることからして、そっちが先だと思われる。『脳髄論』は、その進化の過程(胎児は生物-生命体進化の夢を胎内で観ている)から、演繹された脳のはたらきを、従来の見識に対するコペルニクス的転換で論じたものだ。いまの世間も脳ブームで、それに関する書籍はのきなみ出版されて、ベストセラーになっている。先鞭をつけたのは、養老孟司さんであるが、彼が解剖学の専門であることは特記すべきことだ。夢野久作の転換は、文字通り、本来、脳というのは神経の交換機関でしかないのに、これがさも物を考えているかのように錯覚して文明が発展したため、世の中が無茶苦茶になった、というシロモノで、おそらく発表当時はキワモノ、トンデモものでしかなかったに違いない。とはいえ、現在も脳死をヒトの死と判定する基準からして、脳=ヒトという偏見は変わっていない。しかし、解剖学的、古生物学的にみれば、脳の発達など、うんとわずかな時間でしかナイ。であるのに、胎児が進化の夢を観るということはどういうことか。夢野久作のモチーフは、胎内の胎児の成長が、生物がヒトへと進化していく過程を経ていくというところに注目したことだ。これは、『内臓のはたらきと・・・』においても、ココロの発生を内臓に求める部分で、重要に論じられていて、肝腎かなめは魚類が、陸地に上がって両生類となる新生代、これが胎児の32日めから38日めに相当する。ここがなぜ肝腎なのか、というと、ここで、進化は鰓(えら)呼吸から肺呼吸へと、一大変化を、しかも相当難儀で苦しい変化を遂げたというところだ。ちなみに、直立二足歩行については『内臓の・・・』では、幼児の爪先立ちに注目していて、それこそが、二足歩行への名残だと指摘している。そうして、これらをつなぎ、つむいできたのが、シュレーディンガーの提唱から始まった分子生物学による遺伝子というモノなのだ。〔劇〕が、その一連の生命現象に含まれないワケがナイ。
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