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2009年12月31日 (木)

劇、その演技・6

「心的表出」というのは文字通り、心的な表出であり、これを身体的に受け持つところは内臓系統(植物系統)をその根本とするが、そのままでは表現出来ないので、像(image)や、また表象以前のものとして、脳がそれを変換して感知する。それらが表現される場合は、表象から形態へさらに転換されることになる。このVektorは内側(内界)から外(外界)に向いているが、ふつう「ココロの表現」と称されるものは、このことだと考えてイイ。「形象表出」というのは、脳における論理、演算、思考、記憶、などの作業過程をもって形態として表現されるもので、これは、「カタチの表現」と称される。この表現のVektorは外から入って脳をめぐり、外に出力(output)する。この二つの表出は、それぞれ固有ではあるが、Vektorの合成として表現される。ただ、そのエネルギーの強弱に差があるだけだ。歌舞伎でいうなら、「腹芸」と称された九世団十郎は前者のエネルギーが強く、五代目菊五郎は後者のエネルギーが強かったといえば足りる。ココロかカタチかなどという優劣の論議は意味をなさない。カタチもココロも継承されていくものだが、(それゆえ世襲されていく)ココロを伝えるのは不可能なので、カタチとしてそれは遺される。このカタチ(形象)からココロ(心象)を発掘するのを、芸の伝統という。・・・演技者(役者)においては、その演技を求めるとき、この何れに重きを置いて、それを訊ねてもカマワナイ。簡単にいえば、演技はココロからでもカタチからでも入っていけるものだ。とはいえ、その何れから演技を成さんとしても、それを入出力するのは演技者(役者)自身の心身だから、必ず、演技者(役者)の心身は、ついてまわる(というか、つきまとう)。表現がすなわち疎外であり、その克服であるというのは、この心身がついてまわる(つきまとわれる)本質をいっている。実存といおうが、神の被造物としての本質といおうが、そんなことはどちらでもカマワナイ。ここでいう本質は、生命体(生物)としての根底として、ニンゲンがもっている不可避の現象だ。 

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