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2009年12月 3日 (木)

劇、それ自体・4

「戯曲は~文字によって声、形又は動作を暗示する文学の一形式である~たとえそこに戯曲の生命があるとしても、文字が文字である以上の力を戯曲の中に求めることは不可能である」『・・講話』、まず、「書かれた劇」としての戯曲がなんであるのか、「演じられた劇」としての演劇がなんであるのか、を、もっとも簡潔に述べてみる。すると前者は「読める(読ませる)劇」であり、後者は「みせる(観させる)劇」だ。。もう少し突っ込んでいってみると、前者は可能性としての〔劇〕であり、後者は現実性としての〔劇〕だ。そうして、両者を架橋するものは、偶然性としての写像だ。ここでは、いまのところ観客は括弧にくくっているが、持ち出すとすれば、固有の偶然性(個人)が、一定の了解をもって、戯曲もしくは演劇と関係するものを観客(読者)と呼べばいいことになる。simple is vest.なんだかんだごちゃごちゃと、記号がどうだのシニフィアン(意味するもの)がどうだのとソシュールの言語学概念をもっともらしく提出しなくとも(『演劇学・・』)簡潔に論述すれば、芝居というものはそれだけのものだ。ただ、それだけのものに、論理的に介入していくためには、まず最初に〔劇〕というものが何でアルのかという、基根が必要だと思うだけだ。・・・付記しておけば、「書かれた劇(戯曲)」と「演じられた劇(演劇)」の架橋を偶然性の写像とするのは、戯曲というものが、ある特定の演者(たち)に向けて書かれるとは限らないからだ。私たちは現在でも、チェーホフやシェイクスピアの戯曲を演ずることが出来るが、それはまったくの偶然にすぎない、ということだ。私の戯曲もまた、どこかの誰かたちが舞台化することは多いのだが、私はその演者がどんな個人なのかもまったく知らないでいるケースが数多で、ある特定の劇団に書き下ろした戯曲もまた、のちに別の劇団によって演じられる。それ自体がひとつの偶然性に他ならないし、写像の仕方も千差万別で、戯曲作者の私の立ち入る余地のナイものがほとんどだ。これは戯曲をとらえる位相の問題だが、その関係は偶然性にあずけるしかナイ。

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