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2009年12月11日 (金)

劇、それ自体・9

さらに横道にそれるようだが、書きおきたい。釈迦が、悟りというものに至ったとき、「苦」というものを十二に分けた。「十二因縁」と称されるものだ。これは「無明」から始まる。他の十一項目は概念がハッキリしている。が、この「無明」というものは、概念的なシロモノではナイ。ところが、あらゆる苦の根源となっている。では「無明」とはなんなのか。これは私の推測にすぎないが(仏教学者でも研究者でもナイので)、釈迦は、〔生命〕というものは、ひとつの現象であって、それ自体には、何の目的も意味もナイ、すなわち「明らかで無い」ということに気づいたのではないだろうか。その生命をナニかの目的や意味があるように錯覚するところから苦しみが始まると、順序立てればそういうことになる。しかし、目的も意味もなにもナイだけであれば、それはただの虚無としか呼べないものになってしまう。たとえ、虚無であっても、そこに生きる道筋をつけねばならない。如何にすれば、目的も意味もナイ存在である生命体の現象という人間の人生に、価値を付与できるか。これが、釈迦の最初の自問だったような気がする。それゆえ、原始仏教における釈尊の教義はひじょうに淡々としたものだ。生命現象の目的を(それがもしあるならば)考えてみたいというのは、量子力学への要請でもあった。シュレーディンガーが、量子力学が生命体とどう関連するのか、量子力学の方向をひとつ打ち出したのも合点がいく。そこでは、熱力学の第二法則から生命体についての論議もあるが、本論とは、あまりに逸脱するので、ともかく本筋に論旨をもどそう。要するに私がいいたいのは、〔劇〕というものは、生命現象と深く関わっているということだ。

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