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2009年12月22日 (火)

そんなたいそなもんやナイ

昨日は、今年の最後の塾ということで、近所の韓国料理屋で忘年会。ふだんは塾生とは飲まないが、この日は特別。料理もけっこう美味かったな。で、宴も終盤、だいぶ酒を入れて勇気をつけて、と、前置きして、私のとなりに塾生が座ると、「仏教について聞きたい」という。ナニか仏教の本でも読んだのかと問い直すと、『正法眼蔵』(曹洞宗開祖、道元の著作、全九五巻からなる大著)をって、いきなりそういうのを読んじゃダメ、んで、何が聞きたいかとさらに問うと、仏陀は執着を棄てよとと説いたが、愛への執着をなくして、何の私か、執着あればこその人間ではないか、そうでナイ私なら私とは何か、と、まあそうなのだ。えーっと、簡単にいってしまえば、釈迦仏陀は、愛への執着を棄てよなどとはいわなんだ。なにごとにも執着すると苦しい、愛というものもまた同じで、執着すると苦しいよ、と、いうただけだ。したがって、執着しない愛なら苦しくはナイ。とはいえ、執着を棄てるということに拘泥すると、執着を棄てるということに執着することになって、また苦しい。だから釈迦は、なるべく執着せんように生きたほうが楽だよ、と、いったにすぎない。釈迦は、この世界の真理を求めて、苦行もしたし、瞑想もした。そこで、どっちも極端はアカンと、そういう答に至った。何故なら、瞑想も苦行も、そのどっちからも真理の答(悟り)なんぞ出てこなかったからだ。そこで真理を悟るために執着している自分に気づいて、こういうところからは悟りなんぞというもの得られナイと、悟ったのだ。ただし、コオロギよ。釈迦はそう悟るまで、艱難辛苦を舐めたワケだ。さらに、自らもまた執着に囚われるものとしての、釈迦の修行はそこから始まったというのが、ほんとのところだろう。 

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