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2009年12月31日 (木)

仏性、猫の如し

『正法眼蔵(shoubow-genzow)』に触れる。巷でいわれるようにここでは「悟り」や「修行」というよりも、その主軸になっているのは「仏性」というものだ。この在り方から道元の論理は演繹されていく。ところで、この「仏性」というものを、人間に求めると(『正法眼蔵』もそうなのだが)話は難しくなる。といって、人間に求めなければ意味をなさない。のだが、私は、坊主でも宗教者でもナイので、猫の話をする。30年ばかり前に飼った猫は二度子供を産んだが、初産のときは、ペットの飼い方に書いてあるようなことはまるで眉唾だということがよくワカッタ。『飼い方』には、そっとしておかなければいけない、てなことが書かれてあるが、そっとしておくと、我が猫は心細さに、二階(そこが我が猫の眠る場所)から降りてきて、私に向けて鳴くのだ。そこで、二階で観ていてやると、安心して大人しくしている。我が猫は多産で、七匹産んだが、七匹めは死産だった。残り六匹の子猫たちは、遺伝子の違いなのだろうが、それぞれまるで性格が違っていて、猫などというものは同じようなものだと思い込んでいた私は蒙を啓かれた気がした。まだ乳離れもすんでいない頃だ。イチバンめの子猫はイチバン大きく、動作も緩慢というよりなにやら落ち着いた性格だった。とはいえまだ手のひらに乗るサイズだ。あるとき、6ばんめのもっとも非力な子猫が、段差が15㎝ばかりある隣の部屋に落ちた。必死で登ろうとしているのだが、非力ゆえ、どうにもならない。これを、イチバンめの子猫が観て(観なければワカラナイから観たのだろう)様子を確かめると(確かめねばワカラナイから確かめたに違いない)片手をさしのべて、これをすくい上げようとしはじめた。このとき、イチバンめの子猫にはその情況と、これを「助けねば」という反射があったはずだ。この助けねばという営為がその子猫のどこに宿ったものなのか、子猫のココロにか、意識にか、さすれば、猫にもココロ有り、助けるという慈悲有り。これを観て、私は仏性というものを深く感じた。もし、本能などというもので事をかたづけるならば、残り四匹の子猫は知らんふりだったのだから、それは理屈が通らない。仏性というのはかくの如し。付け足していうならば、私がそういう場面に遭遇せしことも、仏のはからいであったとすると、あの子猫は菩薩の化身ということになる。(後日談)その後、私はことあるごとに、手はさしのべるのだが、むこうからその手につかまってきても、ありゃ、爪がある、と、むこうが勝手にその手を引っ込める。それから先のことは知ったこっちゃナイ。

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