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2009年12月17日 (木)

劇、それ自体・11

生命現象そのものには目的がナイ。そもそもそれが発生した理由が明らかでナイ。さらにいうなら生命がこの宇宙に発生する確率は、ナイ。確率がナイというのは、確率論的に扱える範囲からは逸脱しているということだ。量子の動きですら、確率論はとらえるのに、生命の発生をとらえるのは、確率の洛外なのだ。シュレーディンガーが、そういうことに注目したのも、物理学者としては当然の理路であったろう。計算によっても違うが、単純な計算では、生命というものが発生するのは、いまのような宇宙が一兆個あって、そのうちの一つくらいというものもあるほどだ。しかし、ともかく発生したのは、事実なのだ。理由や目的のナイ〔生命現象〕は、進化という道程をへて、その記憶=記録を遺伝子に刻印した。あたかも「胎児の夢」のごとくに、私たちはそれを細胞単位で受け継いでいる。それは私たちの内臓(カラダ)の中に眠る。脳は演算と思考をするが、心的な領域とは考えにくい部分だ。なぜなら、発達が進化的にみると新しいからだ。(ちなみにこの演算だけを取り出したのがコンピュータだと思えばいい)今年、人類の始祖とされていたルーシーよりさらに100万年を遡る、人類の祖先の化石が発掘された。ラミダス猿人、ちょうど、人類と猿の中間地点らしい。そのあたりから脳は発達、進化を開始するが、心的領域は、もっと古く、進化の過程によって内臓に遺伝子によって記録(記憶)されたものだ。ただ、唯物弁証法的にいえば、この脳とココロは、「対立物の相互浸透」という運動によって、機能していると思ってまちがいナイ。「劇」は、この進化の過程の記録(記憶)、遺伝子に刻み込まれたものだ。そういってしまうとなんだってそうじゃないか、それならなにもいってナイのに等しいのではナイか、と半畳入りそうなので、「劇」が、どういう特殊な記録(記憶)なのかを、出来る限りいってみる。そうすると、〔劇、それ自体〕とは、「ある〔物語〕として心的領域に刻まれた生命現象の記憶(記録)であり、それ自体は物質としてのエネルギーではナイので質量はもたないが、波動としてのエネルギーをもつ、人類史そのものである」ということになる。この〔物語〕というのは、コトバとしてその表出を表現出来るところから、逆視したものだ。それは単なるromanticismだろうという反論については、そのとおりだと、まず応えておいて、romanというものが派生してきたのは、生命現象という、インシデンタルなギフトを、そのように転回してとらえた、人間の心的な特殊性を主張すれば足りる。つまり、劇という心的領域のromanを取り出すために、戯曲や演劇というものが存在するのだ。このromanは、魚類が陸に上がって両生類となる苦難も含まれている。鰓から肺へ。なぜ、魚類は陸に上がったのか。それは「そこに陸地があったからだ」という答が妥当だ。地球がまったくの水の天体であれば、そんなことは起こりえない。しかし、何分の一かは陸となった。陸となったために、陸に上がらねばならない苦闘が、進化の歴史の中に存在したと思わねばならない。進化は謎につつまれているが、劇それ自体も多くの謎を秘めて、心的領域に眠っている。あたかも『紅孔雀』の宝のように。 

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