波の記憶
トンデモ科学と思われるかも知れないが、そうではナイという確信を頼りに書いてみる。「クラモチくんが、いる」とこの欄に前述したことについてだ。それは「神秘的でも心霊的でもナイ」と書いた。では、どういうことなのか、簡略に解説する。私たちは「波長があう」というふうに、何か理由の知れない親しさを感じる他者への評価を論ずるときが数多ある。ここでは、その波というものを物理学的に(つまりmetaphor比喩としてではなく)扱ってみる。波には波長と振動数があるのは、ガッコで習ったとおりだ。エネルギーと私たちがふつうに称しているのは波の振動数をいう。(エネルギーを中国から伝来のコトバで「気」というが、病気とは、エネルギーの病んでいる(乱れている)状態と考えればいい)エネルギーの強さはこの振動数に比例して表される。アインシュタインの相対性理論により、エネルギーは質量にも比例する。これはポテンシャルエネルギー(位置のエネルギー)で、たとえばダムの水量などを思い浮かべるとワカリやすい。満水の状態のダムのほうが、渇水のときよりもエネルギーが高いと感じられるはずだ。ところで、光の量子(フォトン)や電子には質量は存在しない。身近なことをいえば、私たちの持つ熱(体温)、五感もまた質量を持たないエネルギーだ。『般若心経』をひもとけば、「色即是空」の「色」は物質「五蘊」であるが「五蘊皆空」で、質量を持たない「空」だ(『般若心経』を物理学的に観れば、エネルギーの変遷に置き換えればいいことになる)。ただし、エネルギーは、光量子にも電子にも存在する。これを量子の性質である〔波〕としてあつかった場合、たとえば私とクラモチくんとが過ごした時間と空間は、両者相互のエネルギー(波の振動)の交換の場であったと考えて不思議ではナイ。たしかに、クラモチくんは亡くなって、実体はナイが、私には、その記憶がある。つまり、彼のエネルギーとしての〔波〕の記憶を、私は自身の外界(身体)と内界(精神)という「心的領域」で重ね合わせることが出来る。環界(自然界)において彼の存在はナイが(心霊や魂のことはワカランから論じてもはじまらない)、私の「心的領域」では、その記憶は、質量のないエネルギーとして、変換出来るのだ。これを「クラモチくんが、いる」というふうに表現した。これはまた、彼の友人や未亡人の奥さまにおいても同等のことだと思われる。「脳はココロのある場所ではナイ」と記したのは、そういう理由からだ。これは、べつのカタチで、連載中の『劇、それ自体』でも展開するつもりだ。・・・(この項を書くにあたっては、『内臓が生み出す心』(西原克成・NHKブックス)に、啓示、触発された)
« 劇、それ自体・2 | トップページ | 劇、それ自体・3 »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- nostalgic narrative 33(2024.09.20)
- nostalgic narrative 27(2024.06.19)
- nostalgic narrative 26 (2024.06.09)
- nostalgic narrative 21(2024.05.12)
- nostalgic narrative 18(2024.04.11)