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2009年12月28日 (月)

劇、その演技・3

単純に「演ずる」ということならば、誰しも日常的にやっている。思い当たらなければ、てめえが(失礼、自分が)恋愛などというものをしたときのことを思い浮かべればイイ。男はいい男を演じようとし、女はいい女を演じようとする。(おぼえがあるだろ)これはしょうがない。種の保存にかかわるからだ。孔雀だって、そのためにあの豪華な羽根がくっついているのだ。この構造は比較的簡単なもので、ただ、「イイ男(女)」というイメージ(表象というふうにいう場合が多い)を観念的(思い浮かべるということだ)につくって、そういうふうになった気になって、コトバなり行動なりを発現しているだけのことだ。演劇の場合、もう少し複雑になってくる。なぜなら、演劇の場合は、そこに戯曲という脚本が存在し、舞台という〔場〕が存在するからだ。もちろん、戯曲のナイ即興劇もあるだろうし、舞台というのは先にある場合も、アトから(つまり演じられたその場が)舞台となる場合もある。だからといって、構造はそのようなみかけに左右はされない。いずれにしても、人間に在る脳と身体、そうしてココロというもので、演じるという行為はなされるからだ。順を追っていけば、役者(演技者)はまず戯曲(台本・脚本)を手にして読む。読むというのは、視覚から脳への伝達だが、ここで書かれている文章(文字コトバ)は、ある像をもたらすことになる。これは脳とココロの仕事だ。表象というのは、この像にもう少し輪郭を与えたものだと解釈しておけばイイ。この像-表象は役者(演技者)の身体とは最初は関係しない。つまり、役者(演技者)は、いかようなimageでそのcharacterを描いても自由だ。おそらくは、思い浮かぶかぎりの、もっともすぐれたカタチでの描き方をするはずだ。観念はそういう点でどこまでも自由だからだ。次に、そのimageの変容を余儀なくされる時間がやってくる。戯曲(脚本)に描かれ、自らがimageしたそのcharacterに、自分のココロと、その外部(外界)の身体が、どれほど耐え得るか(応じられるか)という「反省」だ。この「反省」は自らを識知する程度にみあっている。極端なことをいえば、30歳前後の演技者が60歳~80歳の老齢の役どころを演じるのはまだ可能だが、三歳の子供や、赤ん坊の役となると、(観客との特別な了解関係がなければ、というのは、「これはお芝居ですから」というお断りがなければという意味だが)これは難しい。では30歳前後の役どころであれば、即座にその役に耐え得る(応じられる)のかというと、そうではナイ。戯曲の中の人物と、自分(演技者自身)とでは、かなり異なったところがある。なぜなら、戯曲は劇作家がかってにimageしたcharacterで書かれているからだ。これにどうオトシマエをつけるのか、ともかくは、演技者が描いた人物と、戯曲に書かれた人物との差異、相違を識知するところから演劇における演ずる行為は始まる。(そういう識知ナシの(というか、その能力がナイ)演技者はここでは勘定に入れていない)。そこで、演技者のやることは、二つに分かれる。戯曲の人物に自分を近づけていくか、逆に自分に戯曲の人物を近づけていくかだ。だが、これらも依然として、ともかくは演技者の観念の中の営為でしかナイ。 

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