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2009年11月11日 (水)

switch

カラダのほうは、ともかく横になれば、休めるのだが、思考のほうはswitchがナイので、複素数空間のカタマリが、去来する。テレビでトークバラエティを一本、観ただけで、疲れて微熱が出るのだけれど、それを抑えるのに、読書するてな、ほんとにややこしい宿痾なのだ。んでと、『仏陀語録 オリジナル』(島田裕己・三五館)は読了したのだが、この、釈迦仏陀が最初に語ったという、文言の数々、いま少し社会的背景、状況などを(多少は解説さてはいるのだけれど)示して欲しかったうらみが残る。仏陀が、コトバを書き物として残さなかったのは、その文言が、のちの世に誤解を生むことをおそれたタメだとは、考えにくいのだ。それなら語りコトバも同等だと思えるからだ。この語録には、当時の世俗(とくにバラモン教)に対しての、異論が多くあったはずだ。『九マイルは遠すぎる』で有名なミステリ作家のハリー・ケメルマンは、新約聖書に矛盾が多いのは、それがイエスの辻説法の記録だからだと断言している。(ハリー・ケメルマン自身はユダヤ教徒)ケメルマンにしてみれば、イエスのキリスト教も、当時多くあったユダヤ教の一分派でしかなく、その教えは辻説法で語られた。仏陀においても、学舎(まなびや)を持つまでは、そのような辻説法の旅がつづいたと推測される。したがって、この著書の仏陀の文言は、そのあたりのものではないかというのが、感想だ。イエスは若くして磔刑となったが、釈迦は当時としては、かなりの長命であった。おそらく、菩提樹の下から、民衆の中へ、さらに多くの弟子たちとの交わりにおいて、その哲学は熟成していったとみるのが、妥当だろう。

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