量子力学と弁証法・続続
親鸞の「面々の御計(おはからい)」というコトバは、「善人なおもて・・・(悪人正機説)」の有名なコトバよりも、重い決意表明のような気がする。ここには、「自分には弟子などいない」「ただ称名念仏のみが頼りで、浄土へいくか、地獄へいくかは人間の計らいに属さない」という親鸞の姿勢がある。問題は、これを不可避(業縁)を本質とするかどうかだ。この論理は吉本さんにとっては、間違いなく〔関係の絶対性〕というものを根幹に置いている。そこで、私はこれを〔関係の偶然性〕というふうにいいなおしたいのだ。これは〔関係の絶対性〕を横すべりさせたものではナイ。〔関係の絶対性〕とは関係の「客観性」のことだ。だから、その反語(対称性)は、それを「主観」に置き換えた〔関係の相対性〕のように思えるのだが、私の場合はそうではナイ。〔関係の絶対性〕の「対称性」は、〔関係の偶然性〕だ。この偶然性は、吉本さんの理路によって否定されているのだが、否定されている偶然性(偶発性)は、パウリ-ユングの同期性(synchronizer)が持つ一種の関係妄想であって、私の持ち出しているのは、量子力学の本質であるところの偶然性だ。コトバを違えていうなら「非決定性」だ。量子力学において、私たちは量子の状態を知ることは出来ても観ることは出来ない。ただし、数学はこの状態を明晰に描いている。つまり、それが「偶然性=非決定性」を本質とすることをだ。ついでにいうなら、量子力学においては、ヘーゲルの観念論弁証法も、フォイエルバッハ-マルクスとつづく唯物弁証法も入り込むことはナイ。この方法論(ドラマツルギー)を以て、私は私なりの世界観を提出しているつもりだ。そこで、親鸞の「面々の御計(はからい)」というのを考えてみれば、それは〔不可避(業縁)」を根底の要因とするよりも、〔偶然(非決定)〕と意味づけたほうが、喉のとおりがよくなる。浄土へいくか地獄へいくか、そんなものは人間が決定することに非ず、むろん確率でもナイ。前世の業縁でもナイ。ナニがそう決定するのかは、弥陀の本願あるのみ。よって、ただ称名念仏あるのみ、という理念だ。ただ、この一点だけが、私とは違うということであって、吉本思想が誤謬や錯誤であるなどとは、毛頭おもっていないことを付け加えて、結語とする。
« 量子力学と弁証法・続 | トップページ | 劇、それ自体・1 »
「量子力学」カテゴリの記事
- 時世録・37(2023.09.02)
- 無学渡世・第二幕の7(2021.07.22)
- 港町memory 71(2019.12.22)
- 港町memory 70 (2019.12.21)
- 港町memory 69(2019.12.19)