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2009年11月30日 (月)

劇、それ自体・2

「脚本の価値が、演出を離れて存在し得るに反し、演出の価値は、脚本を離れて存在し得ない」(『演劇一般講話』)この岸田國士の卓見は、アタリマエのようにみえて、きわめて戯曲と演劇(書かれた劇と演じられた劇)との自立性と関係性を看破している。ここで、岸田國士は、その例として、ギリシャ劇やシェイクスピア劇を挙げるのだが、如何せん、日本の伝統劇には触れていない。この時代(現在もだが)の日本の伝統劇といえば、能狂言に歌舞伎、文楽などの存在があるのだが、脚本らしいものがあるのは、歌舞伎や文楽などで、それすらも謡い方のためのホン程度にすぎない。能狂言は、口伝であるから、戯曲や脚本にあたるものはナイ。その演目に必要な装束や道具の覚書程度のものがあるだけだ。また、脚本らしきものがあったとしても、段取りのようなものだ。もちろん、落語もそうである。噺は師匠から聞いて覚え、出稽古にいって、修練する。そんな中で、ただ、演劇というジャンルにだけは、(映画のシナリオは括弧に閉じることにして)戯曲と称される脚本がある。これがなにを意味するかは、そう難しいことではナイ。つまり、文学性の問題だということだ。岸田國士は劇作家であったことから、(ひいき目にみているのではなく)戯曲というものの重要性をこの論説では強調している。現代において、いっとき、あるいはときおり、実験劇と称して、戯曲のナイ演劇創作をやってみる連中もいるが、それらは、単純に、及びもつかぬ伝統芸を無意識に継承しているにすぎない。ともかくも、戯曲(脚本)が、演劇というあたかも連環性のあるかのような中から、取り出されて論じられたことは、瞠目すべきことだ。

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