貧者の一考・続
バラモンの教説を棄てたところで、人生の苦しみは消えるワケではナイ。ヨーガの瞑想も、苦行もこの「解」を与えるものではなかった。そこで、シッタータは、「苦」というものは、本質的なものではないかという結論に至る。では、その「苦」はどこから生ずるのか、と、こんどは設問をたてる。(私たちは、べつに仏教をいま学ぼうとしているではナイ。シッタータの方法論を追っていきたいのだ)そのとき、おそらく最初におとずれたのは「愛欲」についての苦しみだったに違いない。シッタータ自身の回想にも、王宮での生活に対する疑問に、これがもっとも強く出てくる。金銭、衣食住に不満のあるワケがなかったから、あるいは、若さゆえの当然の帰結といえそうだ。そこから演繹すると、老いること、死ぬこと、さまざまなものは、「苦しみ」を内包している。さらに、日々の日常的な生活もまた同じだ。「苦」「苦悩」こそが、人生の本質だ。これは生きて存在している限り、ついてまわる。さらに「苦」に対する、自問はつづく。なぜ、それらが「苦」なのだろうか。それが本質であるにしても、だ。ここで、シータータは、「苦」は本質ではあるが、さまざまな日常の営為や、人生の所々において、それが生ずるのは、何かが「苦」と関係を持っているのではないかと、踏み込んでいく。なぜ「愛欲」を「苦」と思うのか。なぜ、死を苦と思うのか。なぜ、人生が苦であるのか。このときに「執着」という答えがやってくる。「苦」という対象は「執着」という状態によって、人間と関係している。では、この「執着」という関係を断ち切れば、「苦」から逃れられるのではないか。すると、修行の方法とは、「執着」を如何にして捨て去るかということにつきる。バラモンも、ヨーガも、苦行も無意味だ。その修行方法では「執着」は断ち切れない。教条でもなく、苦行でもナイ、修行の方法が必要なのだ。ついで、いうなら、シータータが初めて説法をしたのは修行者に対してである。それは、『八正道』と称されるが、すべてに「正しく・・・すること」と〔正しく〕という強調符が付いているだけだ。では、その「正しい」とは、何を意味するのだろうか。-この項つづく
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