量子力学と弁証法・続
「人間は、必然の〔契機〕があれば、意志とかかわりなく、千人、百人を殺すほどのことがありうるし、〔契機〕がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない、そういう存在だと云っているのだ」(『最後の親鸞』)という、親鸞の言説の理解は納得がいく。ただ、その〔契機〕というものを〔不可避〕であるとするところが、喉元にひっかかる。これを「業縁」とするならば、まるで、釈迦仏教以前のバラモンの教説と同じような気がする。はたして、偶然の出来事と必然の出来事、意志して選択した出来事というのは、ほんとうに「いずれも大したことではない」のだろうか。というよりも、これらを同等に並べて、さらにそれを超えるところに〔契機(業縁)〕を置くというのを、親鸞の仏教解体の構造として了解していいのだろうか。「人が勝手に選択できるようにみえるのは、ただかれが観念的に行為しているときだけだ。ほんとうに観念と生身をあげて行為するところでは、世界はただ〔不可避〕の一本道しか、わたしたちにあかしはしない」(『同』)ここでも、〔不可避〕はやってくるものとして、説かれている。だが、私たちが「観念的に」行為するということは、それほどすてたものではナイ。〔不可避〕も観念的営為も、いずれも、自然哲学の範疇においては、さほど差などナイのではないか。吉本さんが、真の弁証法から、〔不可避〕という〔契機〕を抽出してきたのなら、私は、量子力学を援用する。ニュートン力学の領域での世間に生きるわれわれに、量子力学など見当違いに思われるかも知れないが、それはあくまで方法論である。弁証法もまた方法論なのだから。たしかに世界は〔不可避〕としておとずれる。よかれと思っての行為がいかほど仇になったことか、私自身も身をもって知っている。そこに〔関係の絶対性〕が横たわることも。ただ、私は、だからといって、諦念したことはナイ。この〔不可避〕という〔契機(業縁)〕に対しての「反抗」こそが、私の唯一の前向きであり、その根拠とするところが、弁証法でもあり、かつ量子力学(の概念)だ。前者は観念的であるかも知れぬが、後者は、観念などの入り込むものではナイ。もう少し具体的にいえば、私は量子力学の根幹である「偶然性」に惹かれている。〔不可避〕と〔契機〕の強い結びつきから離脱するためには、この「偶然性」が必要なのだ。-この項つづく
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