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2009年11月13日 (金)

狭霧の夜空に

ひとは、幸せになろう幸せになろうとして、けっきょく不幸にたどりつく。この謎はなかなか解けるものではナイ。イエスには、旧約があった。それにそって、天国への道を説けば良かった。釈迦(シッタルタ或いはシッダッタ)が、どのような伝説に覆われていようとも、ただひとつマチガイなくいえることは、人生というものの本質が「苦しみ」「不幸」であるということを喝破したことだ。幼少から、さまざまな学問と、高名な修行僧に学んで、そのことごとくを退けたのは、最初にあげた、問いかけに対する答えがみつからなかったからだ。原始の釈迦仏教における釈迦仏陀のコトバが、驚くほど単純なのは、釈迦仏陀の説法が独特のものであったからだ。いわゆる「人(にん)をみて法を説け」(この場合の法は真理のこと)というもので、これが「対機説法」とも、「応病与薬」ともいわれる所以だ。メーテル・リンクもまた戯曲『青い鳥』で、幸せを求める物語を書いているが、これを、ふつうに主題として解読されるように、けっきょく幸せというのは、身近にあるものだ、というふうには、私は読んでいない。私の誤読は、「幸せというものは、身近にある(程度のもので)しかナイ」だ。「幸せを求めるというのは、ひとつの病気ですよ」と、不幸の門の番人が、そこまでやって来た者たちにさとすのである。そこで、幸せを求めてやって来た者が問う。「この門はなんのために在るんですか」と。門番は答える。「聞きなさい、この門こそは出口なのです。入り口の門など、何処にもナイのです」そんなバカなと、ひとは、門をくぐる。幸せからの出口の門を。

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