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2009年11月19日 (木)

貧者の一考・続続

「正しく見ること」「正しく考えること」「正しくいうこと」「正しく行動すること」「正しく生活すること」「正しく努力すること」「正しく修行の目的を心に留めること」「正しく瞑想すること」これがいわゆる『八正道』なのだが、「ご利用は計画的に」と金融業者のCMキャッチフレーズを思い出して、計画的に出来なかったから銭借りるんじゃねえか。「ご利用は衝動的だ」(『川柳うきよ大学』小沢昭一・新潮新書)と、焦燥をつのらせるのは、私だけではナイはずだ(私は町金からは銭借りてナイけど)。もちろん、似たようなものは、キリスト教にも『モーゼの十戒』というのがあるが、あれは「戒め」であって「律法」ではナイ。またモーゼのほうは「汝~~するなかれ」だ。「戒め」なら仏教にもあるのだが、それはちょっと横に置いといて、この苛立つ「正しく」とは、何なのか。もちろん、シッタータは、修行者に修行の方法として、これを語っているのだが、これはそのまま、到達点(悟り)でもある。そこで、私たちは、いまいちど、シッタータがなにゆえ出家したのかを振り返ってみることにする。と、要するにそれは厭世だ。そこから彼の苦行と瞑想があり、それらを捨て去ってのち、本質的な苦の源を「執着=欲望」であると喝破し、で、「正しく」なのだ。この両極端を無くして真ん中をとることは、仏教の教説では〔中道〕と称されているが、苦行でもヨーガの瞑想でもナイ、その真ん中、これを簡単にいってのければ、「正しく」というコトバは「ほどほどに」と置き換えると、もっとも「正しい」のではないかと思われる。もし、「正しく」を正義や美徳と考えれば、そのようなものは、サド公爵の『ジュスティーヌ』『悪徳の栄え』の思想において、破砕されてしまう運命をたどるしかナイ。しかし、サド公爵の造型した悪徳のものたちの悪徳も、一発の核と比するまでもなく、主義思想民族信仰宗教経済のからんだ悪からみれば、ほんの享楽にしか過ぎない。「ほどほどにしとけよ」といえばすむことなのだ。そこで、『八正道』の「正しく」を「ほどほどに」で置き換えれば、はあ、なるほどねと、不思議に納得がいくはずだ。ところが、この「ほどほど」が、人間にとって如何に難しいことか、なるほど、修行のひとつもしなきゃイカンかねえ、と、酒や博打や女や、ゲームや仕事にいたるまで、ほどほどの出来ない私たちには、身に沁みてワカルはずだ。-この項、つづく(かどうかワカラナイ。ほどほどにしとこうかな)

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