現在地は
壮絶はときとして平然に映る。真逆である。クラモチくんの闘病はそのようなものであった。四十九日での、未亡人の談話を聞いて、そのようなコトバが浮かんだ。ここで、その凄惨ともいえる癌との対峙を記すことは避ける。ただ、「辛い、苦しい」にあたるコトバを一切、未亡人は、彼のベッドから聞いたことはなかったという。なのに、私のことは「北村くんは~云々」と、いろいろ口にしていたようで、「会いたかったんだと思います」と聞いて、病院のマップをプリントアウトまでして、いまの仕事にケリがついたらと、予定していた矢先の急変が、その時間を短縮してしまったことを、ほんとうなら悔やんでも悔やみきれないところだが、そうして充分に悔やんではいるのだが、それでも、私に不要な重荷にならぬよう、彼は死してなお、とどまっていてくれた。私にはそれがよくワカル。そんなことは、神秘的でも心霊的なことでもナイ。ひとのココロは、脳のつくりだす精神や意識をいうのではナイからだ。(余計なことだが、そういう理由で、私は脳死判定基準には反対だ)「現在地は?」というのが、友人に宛てた彼の最後のメールのコトバになった。友人、知己が幾人か、見舞いに来るというので、送信したのだ。この「現在地は?」というコトバは、そのまま我が身の情況を問いかけられているようで、彼の壮絶かつ平静な死を、私は壮絶かつ平静な生として、覚悟を強いるべきだろう。私に出来ることなどたかが知れているが、私の現在地はそういうところにしかナイ。
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