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2009年11月 4日 (水)

最中のあんこ・概論

表題説明:最中(もなか)は和菓子の一種、薄皮の中身に餡が入っている。これを「さいちゅう」と読むと、モノの真ん中、あんこは代名詞:・・・マルクスの自然哲学における〔疎外〕と量子力学の運動をどう関係させて了解するのか。これは、課題でしょう、ワトスンくん。で、概論的に書けば、存在の問題として、ギリシャ哲学まで遡り、プラトンはこの世界(自然)が存在するためには、その設計図があったはずだと、考えた。この世界(自然)は不完全ではあるが、イデア(設計図)は完全で、哲学者はそのイデアへの導きをその旨とする、だ。ところで、弟子のアリストテレスは、この世界の創造物(形相と称している)には、材料というものが必要だ、机には机のティーカップにはティーカップの、それに対応した材料(質量と称している)がなければならず、それは必然的な本質であるはずで、こんにゃくでは机は出来ないという理屈だ。ところで、イデア(設計図)は落書きで、本質的な材料は存在しない、というのが、ハイデガー、サルトルの実存である。かたや、マルクスは、人間というものは、自然という対象にに(精神的にも身体的にも)触れる(何か行為する)と、自然は人間的な価値に変貌させられてしまう(人間化してしまう)、が、同時に人間も自然のほうから逆に、自然という価値(有機的自然)に変換させられてしまうと、いうたんやないかな、ワトスンくん。これがいわば〔疎外〕ちゅうやっちゃな。これをして「私は自然の表現であり、自然は私の表現である」というテーゼをたてたのよ、ワトスンくん。で、表現というのは、論理的帰結でいくと、自然と私のあいだにある〔疎外〕ということになるんやが、では、こないだまで、やってみたように、量子力学とこの〔疎外〕の関係をどう了解したらええのやろと、考えてみるのが順序やろ、おい、寝るなワトスンくん。

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