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2009年11月23日 (月)

像という記憶

クラモチくんの仏前にお参りして、闘病の日記の断片や、メールのやりとりを拝読させてもらった。「力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして倒れることを拒否する」(作者不詳)というのが、彼の闘病の座右の言だ。私は18歳のときから、彼が大学に入るまでは密度の濃いつきあいをしていたが、大学に入学してからは、生涯の友人の一人となった〔ウ〕さんとのつきあいが多かったようで、昨日は〔ウ〕さんと、生前のクラモチくんのことを思いつくままに話した。共通の認識として、彼は寡黙であったこと、主義思想に関しての言動はなかったこと。があった。話していくたびに、その折々の記憶が像を切り結んだ。それは瞬間の記憶なのだが、脳のアーカイブな部分に、鮮明に、永遠のものでもあるかのようにして、収蔵されているのだった。茶の間で二人(偶然、私はいつも彼が陣取っていた場所に座ってしまったのだが、それも、〔ウ〕さんの像としての記憶であった)話しているさなか、鉢植えの花が、ポトンという音をたてて、落ちた。「いますね」「いるね」と、〔ウ〕さんと私は、そこに彼がいることを感じた。未亡人は親戚の突然の不幸のために、その日はけっきょく、同席することならず、じゃあというんで、来週の四十九日にまた、ということをその場で決めた。「なんだか、これも彼の計らいですね」「お膳立てしてくれましたね」と我々は、すぐに了解した。この世を去ってからも、いろいろ気を使ってくれることに感謝しつつ、茨城を離れた。

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