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2009年11月 4日 (水)

堕天使のいいぶん(even)

鬼束ちひろが、何を考えているのかは知らん。他人のことはワカランから。ところで、『月光』の歌詞を入手出来たので、こないだの『堕天使の失墜』でスルー(through)した部分を、もうちょっと書いてみる。彼女の詞が身体性からの表出であり、その身体性というのは幻想のものだ、というところだ。彼女の詞(ここでは『月光』)をひとことでいうと、これは「独り言」というしかナイ。独り言の対象は自分自身だ。その場合の自分自身というのは、現実の身体ではなく、幻想の身体(べつに観念的なといってもいいが、観念的というコトバはかなり広範囲に用いられているので、概念として、誤解されるおそれがある)だ。この幻想としての身体(性)は、現実の身体のパラ位置にあるという、対概念ではなく、客観的な視線を棄ててしまった本質直観されたものだ。歌詞の冒頭で「私の神の子供」と(英語で)自身を規定しているのはそのための、前提であるといえる。したがって、そのアトの詞はその視線で観たものと、そこから受けた心情と、で、綴られていくので、スキーマ(schema 枠組み)というものは、除去される(というか、のっけから問題にされていない)。歌詞は彼女の幻想の身体を通過して変容されているので、「腐敗した世界」「この鎖」「不愉快に冷たい壁」「「哀しい音」「効かない薬」などに対応する現実は存在しない。それらはすべて、独り言が産み出した無機的な自然(世界)の産物であり、無意識的に彼女自身のことだから、彼女自身に還元されるからだ。歌詞の末尾が「どこにも居場所なんて無い」というコトバで終わるのは、当然といえば、当然のことだ。なぜなら、対象としている世界(自然)は、変容された彼女自身という世界(自然)なのだから、彼女と世界(自然)との関係は、彼女の世界(自然)に対する特殊な了解の中に消化されていく。そうしてこの特殊な了解というのは、彼女の幻想の身体(性)そのものだ。「貴方なら救い出して」「私を 静寂から」は、その帰結としての〔孤独〕を訴えるものなのだろうが、おそらくタイトルの『月光』は、その象徴とみていい。気がつけば、冴えざえとした月の光の中に立っている(それを観ている)だけの、私、が彼女の立ち位置なのだろう。ただ、映像を観る限り、彼女の素足(裸足)と手の動きは、唯一、彼女の有機的な自然としての身体の拠りどころのように感じる。

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