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2009年10月31日 (土)

滑ってトル散乱するウミガメ・続々

ニュートン力学(私たちの日常)と量子力学をどこで分けるか、どこまでが量子力学で、どこからがニュートン力学か、については、単に数値の問題だ。アインシュタインの量子力学への反論「みていないときも月はそこにあるか」は有名だが、おおまかにいってしまえば、電子も月も量子力学の対象としては同じだ。ただ、関係する数値の単位が桁外れに違うということだ。・・・さて、電子は対象から打ち出され、検知器に到達する。つまり検出される。電子が打ち出されるときと、検出されるときの電子の位置を私たちは知ることが出来る。しかし、その瞬間まで電子がどこにあるかはワカラナイ。途上の位置が決まっていないのだ。では、測定と測定の途上の電子はどういうふうに表されるか。これは複素数で表される。(というか、複素数でナイと表せない)これがシュレディンガーの波動関数だ。関数であるということはベクトルや座標がある。それが複素数平面に存在するということだ。私が知りたかったのは、測定の結果ではなく、結果を生ずる物質の「ほんとうの姿」だった。何度もいうように、測定されていないときの量子の状態だ。それはイメージとしてとらえるならば、波動関数という複素数の分布が、かたまりで空間を移動していくとしか、いいようがナイ。この状態は、対象(ココロ)がまだ表出されていないとき、スペクトル分析されていないとき、検知器で検出(観測)されていないとき、の状態だ。・・・私たちは、日常的にはニュートン力学の中で生きていると考えて差し支えはなにもナイ。しかし、イメージを一転、一変すると、ココロから表出されコトバになって、表現された営みが、受け取る側まで届くのは、この複素数平面の波動関数が、空間を移動していくのと大差ナイ。「私だけが、あなたのこと好きです」と「あなたのことを好きなひとはたくさんいます」が、どういうカタチの対象から発せられ、どういうカタチで受け取る側に届くのかは、決めることが出来ない。ここでは、ウィトゲンシュタインの言語ゲームなど、まったくなんの意味もなさない。また、古典物理学で支えられてきた唯物論も同様だ。ありていにいえば、私たちは、実に不確定な〔関係〕を生きているとしかいいようがナイのだ。とはいえ、ここで、虚無を奉じるワケにはいかない。量子力学の語るように、自然は、ある確率でしか対象を表さない構造を持っている。これは古くから〔縁〕といわれたり〔運〕といわれたりしてきた。そうして、その〔縁〕や〔運〕がたしかに存在することを私たちは知っている。私たちは、ただ、表現するという不条理を毅然として受け入れるべきなのだ。もはやカミュやサルトルの時代のように、不条理は単純な顔をしてはいない。知らず知らず降りかかってくるのではなく、自らが自らを呪縛するような様相で、情況を醸しだしている。そういう困難と闘うには、私も年を取り過ぎたかも知れないが、それなりに、急きも慌てもせず、といって傍観することもなく、かつ、のうのうと、お相手しようじゃないか、と自らを一つの対象として「犬も寝て待てば果報者」というところだ。

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