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2009年10月17日 (土)

可能性と現実性・5

ここで、戯曲の〔可能性〕と舞台の〔現実性〕を問うことにする。私たちはこの演劇の欄でいつも戯曲のことを「書かれた演劇」として扱ってきたし、舞台表現を「演じられた演劇」として扱ってきた。それらは相互に独立していつつ、架橋するものだ。いうなれば、私たちは戯曲の読者のままで演劇を終えることも出来るし、戯曲を読まなくても、舞台で観劇して作品を終えることも出来る。経済学としていえば、戯曲は書籍として商品という形態を持つことが可能であるし、観劇はチケットを購入して座席を買うという形態で、ひとつの商品である。・・・誤解のナイようにいっておけば、戯曲は〔可能性〕であり、舞台表現は〔現実性〕であるというのはいささか尚早だ。そのいずれにも〔可能性〕と〔現実性〕が含まれるのはいうまでもナイ。戯曲は書きコトバという言語を持つことによって、心象を文字言語として表現することが出来る。これは心象の表出を表現するひとつの〔可能性〕である。その逆に、ちょどパラドクス(paradox)として、戯曲は書きコトバとしてしか心象の表出を表現出来ないという〔現実性〕を含む。舞台表現も同様のことがいえる。ここでは、主に音声と身体という表現形態をとることが出来るが、音声は音声言語として言語活動をするとしても、身体は言語ではナイ。〔現実性〕の多くはこの身体というものにのしかかっていく。マルクスによると、人間の手を加えたモノは、すべて人間の身体の延長としてとらえることになる。これは養老孟司さんの『唯脳論』における、「脳は脳に適した環境を創造していく」という定義とよく似ている命題だ。ところで、身体の持つ〔現実性〕がやっかいなのは、人間が個々それぞれ違うという、単純なことから、身体にハンディを持つ者(最近では「障がい者」などと一部を平仮名にした表記が目立つが)にいたるまでを包括していることである。これは、「人間というのはひとのカタチをした自然である」という唯物論ではかたづかない問題(〔現実性〕)である。とりあえずは、現在のところ私たちは、そういう問題提起をするだけに留まる。この二つのアポリア(難題)を解き崩していく力はなく、絶え間ない試行錯誤に頼らざるを得ない。

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