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2009年10月15日 (木)

可能性と現実性・2

こういう、いわゆる「難しいこと」を書くと、読者が減るのは歴然としている。とはいえ、読んでくれている読者がいるということが、なによりの頼りなのだ。演出とはなにかを知らない演出家、評論とはなにかを知らない評論家、演ずることと演技とが一緒だと思っている役者、戯曲とはなにかを知らない劇作家。そういう擬制が大手を振っているあいだは、~やがて夜明けのくるそれまでは 意地でささえる夢ひとつ~(『唐獅子牡丹』)という心境にあるのは、むかしもいまも同じことだ。・・・本論、多少のずれがあるが、観客の側(『要項』の資本を置き直している)から、観客というものについて述べてみる。「労働それ自体に価値はナイ」といったのはほかならぬマルクスである。では、その価値というのは何処に具現されるのか。同じくマルクスのコトバを借りると「労働の対象化」ということになる。これは最初、私には何のことかまるでワカラナカッタ。しかし、あの吉本(隆明)さんですら、『資本論』で思考が煮詰まったときには、三浦つとむさんに教えを請うているのだから、私ごときが、挫けるのはもっともなことだ。「労働の対象化」というのを例示してみると、たとえば、一日の賃金が六千円くらいあるとして、そこから家賃分や光熱費をとりあえずとっておいて、食費に残りの一部を充てる。ひとは食わないと生きていけないので、食う。何を食うかというと、食いたいものを必ずしも食うワケではナイ。五百円なら五百円のものを食べる。これで、血となり肉となり、とりあえず肉体の再生産が出来る。読書しながらお茶を飲む。買ってきたハーブティーでもいいし、喫茶店でもいい。精神の憩いというものだ。ここでも自らの労働(心身の消費)によって得た賃金で自らを生産する。むろん、このときも代金を支払うワケだから、それは消費に該る。さて、きょうは三千円のチケットを買って芝居でも観ようかという気になる。この三千円は消費だが、観た演劇は自分の生産に充てられることになる。こうして、労働はそれぞれの対象に対して消費=生産へと充当していく。ここに価値があるという、それを「労働の対象化」という。それが、いまこの欄で論じている〔現実性〕というものに該る。では、観客は、劇場で「どうなる」のだろうか。もちろん、自らを生産するワケだが、それは、舞台(演劇)の営為者からみると、観客というものを生産していることになる。観客というのは、そこでは生産物として位置づけられる。観客の〔現実性〕は演劇営為の側から創った生産物である。通り一遍の図式を示すと、そういうことになる。つまり、観客は演技、演出(舞台営為)の生産物として出現し、舞台営為は観客の〔現実性〕として現れる、という方程式が成立する。このとき、重要なのは、この場合、観客は資本であるから、その〔富〕は観客が保有しているということだ。したがって、この〔富〕を得んとして舞台営為が働くと、「舞台営為の可能性は、他人のための存在として措定する活動として現れる」ことになる。さらに、観客の持つ〔現実性〕には〔偶然性〕と〔流動性〕が含まれる。

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