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2009年10月24日 (土)

可能性と現実性・7

私たちは〔偶然性〕というものに対して、やや否定的な見解を披露したが(コトバを換えていうと観客に対しての不信)、これはそのまま真逆の異見としても成り立つ。観客は常に〔流動性〕である。ただ、この〔流動性〕に定式を求めるか否かというのが、〔偶然性〕のもう一つの貌というものになる。たとえば、ヘーゲルが世界を精神として観たように、スピノザは世界を人間の手では変えることの出来ない、神自体(神即自然)として観ている。前者が動的なのに対して、後者は静的だ。ギリシャ哲学にもどるならば、この世界はプラトンのいうイデアの産物として存在し、アリストテレスのいう、個体は本質として存在する。つまり人間の手のくだしようはナイ。マルクスが、デモクリトスを却下して、エピクロスを採ったのは、エピクロスの描いた世界が動的であり、かつ「偏り」という〔偶然性〕を含んでいたからで、歴史というものは必然の結果(つまり変わらないもの)なのではなく、数学的にいい換えれば、実無限のような不動のものではなく、可能無限のような、生成の過程を持つ、という、静的世界観への疑いからであったと考えられる。ここで、哲学にそれている余裕はナイので、先に進む。私たちは観客という〔偶然性〕のナニに信頼を置くべきなのだろうか。いまのところ、「病(ヤマイ)もの」映画で感動して涙を流す観客は、過去に「母もの」映画で涙を流した観客と同相だ。結論をいってしまえば、私は、演劇(ここでは演じられる劇として)において、観客に疑問符をもたらせない芝居は、ダメだと思う。これはかなりキワドイ理屈で、単純にその舞台がまったくの駄作でも、観客は疑問符を発するというのがその理由なのだが、それは棄却し、信頼を置くべきところがあるとするならば、観客の「何故」「誰」「どうして」「何が」という、まるで奇術で翻弄された、あの顔つきだ。「これはいったい何なの」と、観客にいわしめること、〔偶然性〕の持つ「たまたま」の邂逅に、〔偶然性〕そのものの自覚を促すこと、もし、今日ここでこの芝居を観なければ、という心情をいだかせること、これが肯定的な観客への信頼というものだ。

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