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2009年10月18日 (日)

可能性と現実性・6

〔偶然性〕というものについて語るうえで、留意しておかなければならないのは、ニュートン力学と量子力学とでは、範疇がまるで違うということだ。中津川の演劇キャンプでお世話になったMさんから、岐阜での神人(じにん)田中守平(「大霊道」の創始者)の資料をもらって、感想を求められたが、私にワカルのは、この宗教者をはじめとして、あらゆる新興宗教(『幸福の科学』からなんじゃもんじゃまで)の論理は、すべてニュートン力学と量子力学をごちゃまぜにしているということだけだ。たとえば、ここに一個のリンゴがあるとして、そのリンゴを放り投げるとする。そうすると、リンゴは放物線を描いて、あるべきところに一個で着地する。ところで、このリンゴが数個に分かれて、着地してしまうというのが、自然の実相だといっても、まさかそんなバカなことがと、誰しもが信じない。しかし、自然のほんとうの姿というのは、そうなのだから仕方がない。もう少しいうと、リンゴの着地点は確率によって分散してしまう。誤解しないように付け加えるなら、これは理論的帰結であって、実験、測量の問題ではナイ。後者は量子力学のことを述べているのだが、量子力学には、実験、測量という概念は入り込まない。ここではカール・ポパーの「反証法(反証主義)」は何の役にも立たない。何故なら、〔偶然性〕というのは、自然の持つ「根源的性格」なのであるから、偶然を実験することなど不可能だからだ。量子力学で知られるハイゼンベルクとニールス・ボーアの「不確定性原理」を説明するのに、電子に波長の違うガンマ線を当てて、その位置と運動量が同時に求められないことを記している物理学の本は、やまほどあって、それはいつも私の頭を混乱させてきた。何故なら「これは実験ではナイのか」という疑問符から抜けられなかったからだ。たしかにこれは実験である。ただし、これはハイゼンベルクが述べた「思考実験」の例示なのだ。そこに至るまでの、私のノータリンの脳を納得させるのに、その手の書籍が、20冊あまり、本棚を占拠している。なんというバカであるか。・・・もちろん、観客の〔偶然性〕はニュートン力学であるが、そう安易に二つを分かつのもせっかちである。スピノザは〔偶然性〕など認めなかった。何故なら、彼にとっては「神即自然」だったからだ。アインシュタインの信仰もそこにあった。従って、あの有名な「神はサイコロをふらない」というコトバが飛び出すことになる。ただ、スピノザは人間を自然の中に数えながら、未だ完成ならざるものとしている。この言明は否定するものではナイように思う。私たちが観客を〔偶然性〕というとき、そこには、舞台営為者の〔可能性〕との〔流動性〕をともに考慮しなければならない。もちろん、それ自体で強く流動するのは観客の側だ。公演後「感動しました、また絶対、次も観に来ます」と、握手までして帰った客が、ほんとうに次の公演を観に来たことなどありゃあしねえ。私たちの感じる空虚は、たいていが、この〔流動性〕から生じている。柄本明氏が「観客なんかいないほうがいい」といったり、私が「本番さへなければ芝居は楽しいんだけどなあ」といったりするのも、そこにみなもとを持っている。そこで、観客は単純に、貨幣という形態として割り切られることになる。観客と集客動員数のあいだに等号(=)が引かれるのも無理からぬことなのだ。

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