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2009年10月 6日 (火)

塩まいておこうっと

あんまり深刻になっちゃヨクナイです。深刻はろくな結果をもたらさない。鶴亀鶴亀、塩でもまいておこう。劇作家のH氏から、『ヴィヨンの妻』についての考察というか、質問メールをもらったので、返信もし、またこの欄の前稿で少し書いたが、まったく憶測、推測の域を出ない誤読を承知でいうなら、太宰はあの作品にドストエフスキーの『罪と罰』を意識していたのではないかという気がする。つまりはラスコーリニコフと、ソーニャだ。かたや大長編だが、太宰はそれを短編でみごとに仕上げた。ヴィヨン(フランスの放蕩無頼の詩人)であるところの主人公=大谷(太宰の分身でしょうが)は、H氏の指摘するように、その妻にラストシーンで神を観たのかも知れない。「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」という、妻の最後のせりふは、たしかに免罪のコトバとみえるからだ。映画『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ』での田中陽三さんのシナリオは、ここをさらに深く掘り下げていて、一種の聖書理解となっている。

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