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2009年10月23日 (金)

放置しているワケではナイ

『可能性と現実性』が滞っているのは、放ったらかしにしているワケではナイ。いま、読み直している量子力学の書籍で、マルクスの学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』が突然現れて、マルクスは、エピクロスの〔偏りの概念〕を高く評価し、〔偶然性〕に軍配を上げているというような記述があったからで、ふつう歴史偏重と思われているマルクスが何故、そういう立場をとったのか、自分なりに考えているワケで、いまさらテクストに向かう能力も気力もナイので、能無しは、ただ、うーんとただ、考えているのだ。しかし、まんざらこの粘りは無駄ではナク、なんとかそれらしい漠然とした答えをみつけつつある。なんとなくが、それとなくワカッタら、再開する。・・・いくらlogicで誤魔化していても、納得のいかないのはしょうがナイらしく、ゆんべも、零時を過ぎているのに、蒲団に座ったまま、大泣きしてしまった。というのも、一昨日、かかりつけの医者に定期診断に行ったのだが、この医師も、急性の胃ガンで命は来年の春あたりだと、公言している。私より二つほど下の、それでも天才といわれたひとで、そのくせ、週一回は東京まで出かけて、日雇い労務の患者を診ている。ふだんは殆ど血圧を計るだけで、世間話などしないのだが、めずらしく、一昨日は彼から「たいへんだねえ、芸術をやっているひとは」と、加藤和彦さんのことで、ちょっと雑談した。私が「うつ病の希死念慮は、覚悟でも、苦慮でもなく引っ張られる感じですから」つまり、うつ病というのは、自己存在の否定であるから、それは自らの死を持って完成するというのが理屈なのだ。と、医師は「死に神ってのはいるんだねえ。むかしのひとは、そういう引っ張られるのを死に神と呼んだんだな」と、しみじみ述べられたのである。来年春までの命だというのに、この黙々粛々として、患者と接する覚悟は何処からくるのか、とても私には真似出来るものではナイ。窓口で老婦人が「もうしわけありませんね、私のような軽い病気のものが診てもらって」と何度も礼をいっているのが聞こえた。私は深くこうべを垂れるしかナイ。

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