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2009年10月16日 (金)

可能性と現実性・4

また横道にそれるが「可能性」と「現実性」という概念は、実存主義としても理解出来る。つづめていえばハイデガーは、人間という存在(現存在)の「可能性」を哲学したといってもいいのではないか。サルトルまでいくと、単に彼の実存の定義(『実存主義とは何か』)はギリシャ哲学のプラトニズム、アリストテレスを否定したに過ぎない。・・・私たち人間は幸か不幸か、コトバ(言語)を持つことになった。そのために、ココロのうちを表現出来ることになり、逆にココロのうちを表現出来ないという疎外に陥ることになった。心的表出が言語に換言出来ると考えたウィトゲンシュタインの言語学には、すっぽりと言語表現の持つ本質的疎外が欠落しているように思う。そんなことは、物書きとして(私の場合は劇作家として)、心的表出を表現(言語)に転化していくときにいくらも感ずることだ。私たちは、コトバ(言語)=表現を拡張しようとして、ホンを書くのではナイ。心的表出の〔無意識〕と〔顕在〕の深い闇をいかにして埋めていくかに腐心しているのだ。そこでは「ホット」といえば温かいコーヒーが出てくるなどという言語ゲームのような、楽観的な〔現実性〕は用をなさない。「可能性の文学」というのは織田作之助の命名だが、現在それは戯曲のためにあるようなコピーだ。何年か前、演出家の佐藤信さんが、ふともらしたコトバがあって、実は佐藤さんは岸田戯曲賞を受賞していながら、戯曲は数本しか書いていないらしく、「ひさしぶりに戯曲を書いて、ラストシーンに、燃え上がる船が天空から降りてくるなんて、書いたけど、どうすんのかね、しかし、いいよね、戯曲は何でも書けるから」てなこと笑いながらいうのである。私もうんとむかし、「仏壇が炎を吐いて、宙を飛ぶ」というラストシーンを書いたことがあったが、当時の私たちの財力や技術力では、これは実現出来なかった。「仏壇を飛ばすのには、何か強力がゴムが必要だが、そんなゴムはナイ」という結論をもって、このシーンは却下された。私の戯曲塾では、戯曲は舞台になるのを前提として書かれるものではあるが、これは舞台では不可能だろうというようなことを予め、禁じ手としなくともいいと教えている。ここでは「書かれた劇としての戯曲」という〔可能性〕と「演じられる劇としての舞台」という〔現実性〕があるだけだ。この戯曲の〔可能性〕は散文(小説)のリアルティとはまったく違うところだ。最近の小説は、ミステリを書くか、ねちっこいラブストーリーを書くかすれば、一発アテルことが出来るようだが、戯曲はそうはいかない。そのぶん、家元(談志師匠)のいうように、戯曲もまたillusionなのかも知れない。

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