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2009年10月12日 (月)

可能性と現実性・1

マルクスの『経済学批判要項』において、マルクスの経済学を演劇に置換してみる(たいてい私の演劇学はさまざまな学問を演劇に置き換えることで成立させてきた)。『要項』では最初の貨幣というものは、資本としての〔可能性〕をもった貨幣である。これを「貨幣としての貨幣をやめたことによって資本の〔可能性〕として生成しつつある貨幣」と表現している。私の『貨幣と演劇』論からすると、この「貨幣」というのは「演出」と置換することが可能だ。(この欄の同項を参照)すると、ここでいわれている「資本の〔可能性〕として生成しつつある」とは、どういうことになるのか。私たちはまず、この「資本」というものを演劇に置換するところから始めることにする。漠とした想念から発すると、この「資本」というのは、スポンサーであり、観客である像が浮かぶ。その上で前言をいいなおしてみると、「演出としての演出をやめたことによって、観客の〔可能性〕として生成しつつある演出」ということになる。この方程式は、いまの演劇状況を意外にうまくいいあらわしているように思える。ひとつに、演出のシンパシーを観客側から引っ張ってくるというものであり、ひとつに、演じられる劇の主体を観客に委ねるということであり(観客の主観によって成立すればよいということであり)、俗っぽくいってしまえば、観客あっての表現(舞台)であるということになる。そこでは、貨幣が資本に転化するというあの剰余価値というのは、観客の消費=生産を差っ引いた分の、演出、演技、戯曲に該る。ここでは観客の〔可能性〕が演劇の主体となってしまうため、表現は観客における〔現実性〕へと転化することになる。如何なる深遠な配慮を含んだ演劇の〔可能性〕も、観客の「きょうの芝居は感動したね」という〔現実性〕において、凌駕されてしまうことになる。これはまぎれもなく、表現(者)に課せられる〔疎外〕である。この原因は何処にあるのか。おそらく、戯曲を演じられた演劇に架橋するときに、戯曲の〔可能性〕を演出と演技によって〔現実性〕へ持ち込む方法論、志向性、世界観、思想性、にその根拠があり、戯曲の〔可能性〕が〔現実性〕に移行するさいに受ける本質的な疎外とは違うものだ。

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