無料ブログはココログ

« 可能性と現実性・2 | トップページ | 可能性と現実性・4 »

2009年10月15日 (木)

可能性と現実性・3

〔偶然性〕というのは、観客の多様性や個別性というふうにいってもいい。つまり、いま、どんな観客が、観客席に座っているのかは、舞台営為側には、ワカラナイということだし、それは誰が決めたことでもなく、まったくの偶然のことで、そこにいるのは、肉体労働者かも知れないし、デスクワーカーかも知れないし、評論家かも知れないし、老若男女、趣味趣向、さまざまな連中が集まってきているということだ。したがって、舞台の〔観方〕もとうぜん違ってくる。ある者は感動するかも知れないし、ある者は居眠りをしだすかも知れない。こういう対象に対する観方の違いを最初に問題にしたのはカントだと思われる。デカルトまでは「我思う、ゆえに我在り」という〔理性〕を信じていた。この場合の〔理性〕とは人格の問題ではなく、神から授与された人間の能力である。それをカントは『純粋理性批判』というカタチで切って棄てたのだが、ニーチェもまた、自己が対象とに接するのは、単に解釈の違いに過ぎないと述べている。この問題に真剣に取り組んだのが、フッサールの現象学である。フッサールは、「本質直観」による「判断停止」というカタチでいったん客観というものを棚の上に置いた。そこから「想像変容」が始まる。この辺りは、面倒なのでサクサクといってしまうが、吉本さんも、党派性の問題として、これを〔関係の絶対性〕(『マチウ書試論』)と名付けてとりあげている。さて、私たち舞台営為にたずさわる者としては、この〔偶然性〕にどう対応し、どう処理すればいいのか。とりあえず、如何なる毀誉褒貶、賛否両論も許容せねばならない。というのが、私の立場である。しかしながら、どのような〔偶然性〕であろうとも、その観客の〔価値〕を引き上げるという営為としての演劇営為をもたなければならない。というふうに進むしかナイ。つまり、観客の〔現実性〕と私たちの〔可能性〕を、ひとつの対立形態(矛盾)として、それを止揚する〔可能性〕を私たちの演劇営為の中に持つべきだ、というのが、私の考えであり、理想である。ことわっておくが、これは観客を教育することとはまったく意味が違う。私自身、演劇(芝居、舞台)をお勉強のためにみせられるのは冗談じゃねえ。具体的な私の方法論をいえば、常に観客席に、〔私自身〕をひとり座らせておくことだ。そやつを眠らせないよう、退屈させないよう、そやつの三千円を無駄にさせないように、心配るのが、こっちの仕事だと思っている。次回は、ちょっともどって、戯曲と舞台における〔可能性〕と〔現実性〕について考えてみる。

« 可能性と現実性・2 | トップページ | 可能性と現実性・4 »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/48413582

この記事へのトラックバック一覧です: 可能性と現実性・3:

« 可能性と現実性・2 | トップページ | 可能性と現実性・4 »