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2009年10月28日 (水)

そういうこと

一昨日のようなことを書くと、カッコイイこといいやがってと鼻白む者から、チェッと舌打ちする者、心配してくれる者、さまざまなのだが、このブログエッセーはあくまで、私の独壇場(どくせんじょう)なので、時折舞いくるひやかし半分のゲストメールはみんな受信拒否処分にしている。・・・客観と主観について、主観の確固たる存在を述べたのはおそらくカントだが、それはフッサールの現象学で整理され、その後、ニーチェ研究から構造主義に敷衍(ふえん)していく。つまり、主観優位の視点だ。しかし、鶴見俊輔に天才的変人といわしめた山岸巳代蔵は、これをコペルニクス的に転換して、主観を否定した。ヤマギシズムでは、これは「思い」(主観)と「事実」(客観)の違いというふうに解釈されていて、世界は主体(私)の思いの中にあるのではなく、事実(客観)しかナイというふうなものだ。これは、釈迦仏教の諸方無我に通じるところがあるようだし、あらゆる関係性において、弁証法的な解釈と受け取ることも可能だ。いわば独我論の真逆である。しかし、これを物理学に置き換えると、これはまったくの機械的宇宙論と同意になる。なにしろ、主体の入り込むスキがナイのだから。物理学においては客観(観測、測定)が要をなすのはニュートン力学までで、量子力学においては、観測や測定の入り込む余地はナイ。量子力学においてはもちろん主観も意味を成さない。存在するのは〔偶然性〕と、その確率を示す数学的理論だけである。とはいえ、それは自然を完璧に記述することが可能だ。二つの物理量の関係は不確定性であり、その不確定性(偶然性)は複素数の平面に現れるため、実数直線よりも広い。とはいえ、これはニュートン力学による歴史性を否定するものでもナイ。ただ、私にいえるのは「そういうこと」だから、そういうふうに生きたっていいだろうという楽観だ。もちろん、死んでも、とくにどうでもいい。生きても死んでもどうでもいい。これはけして投げやりの心情ではナイ。なんとか辿り着いた、私なりの自己肯定だ。

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