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2009年10月

2009年10月31日 (土)

滑ってトル散乱するウミガメ・続々

ニュートン力学(私たちの日常)と量子力学をどこで分けるか、どこまでが量子力学で、どこからがニュートン力学か、については、単に数値の問題だ。アインシュタインの量子力学への反論「みていないときも月はそこにあるか」は有名だが、おおまかにいってしまえば、電子も月も量子力学の対象としては同じだ。ただ、関係する数値の単位が桁外れに違うということだ。・・・さて、電子は対象から打ち出され、検知器に到達する。つまり検出される。電子が打ち出されるときと、検出されるときの電子の位置を私たちは知ることが出来る。しかし、その瞬間まで電子がどこにあるかはワカラナイ。途上の位置が決まっていないのだ。では、測定と測定の途上の電子はどういうふうに表されるか。これは複素数で表される。(というか、複素数でナイと表せない)これがシュレディンガーの波動関数だ。関数であるということはベクトルや座標がある。それが複素数平面に存在するということだ。私が知りたかったのは、測定の結果ではなく、結果を生ずる物質の「ほんとうの姿」だった。何度もいうように、測定されていないときの量子の状態だ。それはイメージとしてとらえるならば、波動関数という複素数の分布が、かたまりで空間を移動していくとしか、いいようがナイ。この状態は、対象(ココロ)がまだ表出されていないとき、スペクトル分析されていないとき、検知器で検出(観測)されていないとき、の状態だ。・・・私たちは、日常的にはニュートン力学の中で生きていると考えて差し支えはなにもナイ。しかし、イメージを一転、一変すると、ココロから表出されコトバになって、表現された営みが、受け取る側まで届くのは、この複素数平面の波動関数が、空間を移動していくのと大差ナイ。「私だけが、あなたのこと好きです」と「あなたのことを好きなひとはたくさんいます」が、どういうカタチの対象から発せられ、どういうカタチで受け取る側に届くのかは、決めることが出来ない。ここでは、ウィトゲンシュタインの言語ゲームなど、まったくなんの意味もなさない。また、古典物理学で支えられてきた唯物論も同様だ。ありていにいえば、私たちは、実に不確定な〔関係〕を生きているとしかいいようがナイのだ。とはいえ、ここで、虚無を奉じるワケにはいかない。量子力学の語るように、自然は、ある確率でしか対象を表さない構造を持っている。これは古くから〔縁〕といわれたり〔運〕といわれたりしてきた。そうして、その〔縁〕や〔運〕がたしかに存在することを私たちは知っている。私たちは、ただ、表現するという不条理を毅然として受け入れるべきなのだ。もはやカミュやサルトルの時代のように、不条理は単純な顔をしてはいない。知らず知らず降りかかってくるのではなく、自らが自らを呪縛するような様相で、情況を醸しだしている。そういう困難と闘うには、私も年を取り過ぎたかも知れないが、それなりに、急きも慌てもせず、といって傍観することもなく、かつ、のうのうと、お相手しようじゃないか、と自らを一つの対象として「犬も寝て待てば果報者」というところだ。

滑ってトル散乱するウミガメ・続

いま対象(ココロ)である固有値には電子の±と同じに、「私だけが、あなたのこと好きです」と「あなたのこと好きなひとはたくさんいます」という作用素(固有値の種類)しかナイ。もし、一回だけこれを測定するならば、測定値(表現)はどちらか一つしかナイ。つまり、測定(再度述べるが、測定とは対象がどういうものであるのか知ることである)の値は、得られるように思える。しかし、これは、さまざまな固有値(この場合は二つの物理量)の中から、どちらか一つが〔たまたま〕観測されたというのと同じだ。つまり、この測定結果は、量子力学的にいうと、対象の状態が正確であることを意味しない。換言すれば「私だけが、あなたのこと好きです」がたとえ検出されたとしても、対象の状態がそうであったとはいえないのだ。そこで、測定の頻度を増やしていくことにする。すると、検知器ででの測定値(表現)は、両方が分散して観測されることになる。つまり、私たちは対象が、二つの状態であることを知ることは出来るが、それを決定することは出来ないという、矛盾をかかえることになる。ある対象を同じ物理量で測定しているのに、測定値は毎度違って分布されるということは、どういうことを示しているのだろうか。・・・「物理量(コトバ)と対象(ココロ)の状態の関係とはなんだろうか」「対象(ココロ)が物理量(コトバ)によって測定値(表現)と同等であるということがいえるのだろうか」「測定値(表現)は観測(受け取る側)が作り出しているのではナイのだろうか」「と、すれば、対象(ココロ)の存在自体も観測(受け取る側)が作り出しているのではナイだろうか」・・・この辺は、量子力学が受け持った疑問符を、私たちの日常における場に置き直したものだ。私が、アホなりに、ずっと疑問であったのは、量子力学の場合には「測定されないときの量子について」、つまり、対象からスペクトル分析に向かう途上での量子とは何か、ということであった。これをいま、ココロとコトバ(表現)にいいなおすと、ココロから表出され、コトバとして表現された心的なものが、その途上では、ひじょうに不確定性なものではないかという、疑問になる。私たちは、ココロを知らしめようとして、コトバで表現するベクトルを持っているが、思うに、このベクトルの方向は、ほんとうは逆向きなのではナイのだろうか。つまり、私たちはコトバ(表現)によって、ココロをさがしているのだ。いうなれば、ココロとコトバの深い隔たりに対しての希求の営為こそが表現というものだ。-この項つづく-

2009年10月29日 (木)

滑ってトル散乱するウミガメ

『船酔いバッハ論』が『フォイエルバッハ論』(エンゲルス、1886年)の洒落だとは誰も気づかなかったようで、んなことぁ、どうでもいいけど、作者の筆遣いのマネをして、こういうタイトルで、コトバ、ココロ、量子力学を表現(私の場合は演劇だが、ここでは一般にでイイ)について、カテゴリー・サーフィンをやってみよう、という魂胆だ。とはいえ本家には及ばず、「滑ってトル」は「スペクトル」をひねくったモノなんだけど、ちと苦しいか。・・・おおまかにいうと、量子力学による物理量の測定過程を、いつもながらの置換法に依って、たとえば、都々逸みたいにして唄うと、~こころがことばで伝わるならば なんの苦労もあるまいに いったことばが 仇になる~、てなところかな。ここで、先に、ナニをどう置換するか、述べておく。測定の「対象→ココロ」「物理量→コトバ」「測定値→表現」「検知器→受け取る側」というふうにおおまかに置き換えてみた。「スペクトル」というのは、物理量の固有値(位置や運動量個々のこと)の分布だが、スペトクル分解として、測定の方法というふうに理解してもらっておけばいい。つまり、このスペクトル分解によって、物理量であるコトバがいかなる測定値(表現)として捉えられるかという、思考実験だ。たとえば、電子を例にとると、電子の物理量には固有値が二つしかナイ。プラスとマイナスだけである。したがって、その物理量を測定するのは比較的かんたんのように思える。この測定を一回だけ行った場合、必ず一個の測定値が得られる。これは物理量の固有値の一つだ。スペクトルというのは、固有値(ここでは電荷)の分布であるのだから、プラスが出るか、マイナスが出るかということになる。いま対象であるココロの測定を実験してみる。つまり「どういうココロなの」という対象の状態が知りたいワケだ。そのためにココロ(対象)は、コトバ(物理量)を発せねばならない。そうしてこれをスペクトル分解するのである。こうすることによって、得られる測定値は、「初期状態が決められる」というワケではなく、「初期状態を知る」ということになる。仮に「私だけが、あなたのこと好きです」という固有値と、「あなたのことを好きなひとはたくさんいます」という固有値という便宜上のコトバを発して測定することにしよう。量子力学がオモシロイのは、実はここからなのだ。-この項つづく-

2009年10月28日 (水)

そういうこと

一昨日のようなことを書くと、カッコイイこといいやがってと鼻白む者から、チェッと舌打ちする者、心配してくれる者、さまざまなのだが、このブログエッセーはあくまで、私の独壇場(どくせんじょう)なので、時折舞いくるひやかし半分のゲストメールはみんな受信拒否処分にしている。・・・客観と主観について、主観の確固たる存在を述べたのはおそらくカントだが、それはフッサールの現象学で整理され、その後、ニーチェ研究から構造主義に敷衍(ふえん)していく。つまり、主観優位の視点だ。しかし、鶴見俊輔に天才的変人といわしめた山岸巳代蔵は、これをコペルニクス的に転換して、主観を否定した。ヤマギシズムでは、これは「思い」(主観)と「事実」(客観)の違いというふうに解釈されていて、世界は主体(私)の思いの中にあるのではなく、事実(客観)しかナイというふうなものだ。これは、釈迦仏教の諸方無我に通じるところがあるようだし、あらゆる関係性において、弁証法的な解釈と受け取ることも可能だ。いわば独我論の真逆である。しかし、これを物理学に置き換えると、これはまったくの機械的宇宙論と同意になる。なにしろ、主体の入り込むスキがナイのだから。物理学においては客観(観測、測定)が要をなすのはニュートン力学までで、量子力学においては、観測や測定の入り込む余地はナイ。量子力学においてはもちろん主観も意味を成さない。存在するのは〔偶然性〕と、その確率を示す数学的理論だけである。とはいえ、それは自然を完璧に記述することが可能だ。二つの物理量の関係は不確定性であり、その不確定性(偶然性)は複素数の平面に現れるため、実数直線よりも広い。とはいえ、これはニュートン力学による歴史性を否定するものでもナイ。ただ、私にいえるのは「そういうこと」だから、そういうふうに生きたっていいだろうという楽観だ。もちろん、死んでも、とくにどうでもいい。生きても死んでもどうでもいい。これはけして投げやりの心情ではナイ。なんとか辿り着いた、私なりの自己肯定だ。

2009年10月27日 (火)

こりゃあ死ぬわなあ

本日、ひとりカラオケ。いつもは1時間なんだけど、100円アップするだけで、2時間貸し切りになるので、2時間。というのも、きょうは歌の本持参したからなあ。ところで、確実に歌が下手になっているのは自覚出来る。まず、音程が取りにくくなっている。自分では合ってるつもりなんだけど、微妙に♯か♭しているようだ。高音部が出にくくなっているので、その辺がアヤシイ。それと、唄いだしが2分の一秒ほど遅れる。中年特有のあれ、ね。むかし歌えた歌が唄いにくくなっている。休み休みやってるつもりだけど、1時間半が精一杯。次第に血圧が上がってきて、ふらついたり、歌っている途中で、貧血起こしそうになったりする。鬱々とするのを誤魔化しにやってることなんだけど、きょうはあまり効果がなかったみたいで、夜、極めて強い希死念慮に襲われて、ひとりだったので、同じマンションの知己に電話したけど、本日多忙らしく、で、頭掻きむしりながら、何処かへ行こうか、何処も行くところなんかナイぞ、ナニスル、イケネ、ナニモ、デキネエ、ナニカシロ、そうだよなあ、こりゃあ、首くくるよなあ。なんぞと、人ごとのように思いつつ、部屋中歩き回って、ともかく、ナニカ書こう、書くもんナイカ。再来年の原稿ナオシ、アルゾ。ソレ、ヤレ。パソコン、スイッチ入れて、立ち上がるまで、量子力学の本読んで誤魔化して、こりゃあ、ふつうだったら、死ぬよなあと、「死に神っているんだなあ」というコトバ思い出しつつ、まあ、いま生きてるんだから、なんとか。ふんとにもう困った宿痾。吸って吐いて、生きるは一息。

2009年10月26日 (月)

しょせん哀しき旅路の果ては

「俺が死んだ時ゃよ~道端埋めてくれ」(『次郎長三国志』で挿入される次郎長の子分たちのコーラス)「おどま打ち死んだなら~道端ちゃいけろ 通る人ごち花あげる 花は何の花 つんつん椿 水は天から貰い水」(『五木の子守歌』の中でも、もっともポピュラーな歌詞、私が死んだら道端に埋めてください、通る人が花でもあげてくれるでしょう、が、最初の歌詞の意味)「俺が死んだら裸のままで~ゴビの砂漠にうっちゃっておくれ」(『蒼き狼』作詞者、作曲者不明、全共闘の一部でたまに歌われた)・・・実は大阪市立芸術創造館指定管理者に、大阪現代舞台芸術協会(関西の劇団の協会とでもいっておくけど)と福岡のNPO法人が共同事業体として、応募をしていたのだが、そいで、館長ということで、と、お願いされて、そこは渡世の義理、いいですよと返事して、この月8日にプレゼンとヒアリングに参加、けっきょく、現行団体に7,6点差で負けて、これはナシということになった。と、まあ、報告だけしておく。私は特にナニもナイが、打って出た若いひとたちには、ショックだったろうと察する。かなりの消耗のさなかというところだろう。実をいえば、ヒアリングの案配、雰囲気で、これは勝負がついているなと、おおよそ私にはワカッテいたのだが、そこはそれ、結果が出るまではと、待っていて、いま報せを受けたばかりだ。たぶん、マイナスになるだろう、名古屋という遠隔地の私を館長候補にしてくれたのは、身に余る光栄だ。(もっとも、やっぱりそこんところがほんとにマイナス点だったのだが)感謝しておきたい。何も出来ない単なるロートルだが、(ロートルというのは中国語らしい)いくらでも、どんなことでも粉骨砕身するので、用事があれば、いつでもいいつけてもらえればいい。その代わり、死んだら、道端に埋めてくれ。その道を通るとき、思いだすことがあれば、花の一本も供えてもらえれば僥倖だ。

2009年10月25日 (日)

ロゼッタストーンの楽譜

娑婆に未練がなくなったというか、興味がなくなったので、というか、あんまりもうつきあいたくないなというふうなので、こいつが周期性のうつ病に転化してはマズイなと、ともかく、脳を違うことに向けようと、そいで、量子力学の数式に取り組もうと、で、いま、シュレディンガーの波動力学での位置と運動量(この積の順序を変えると、差が生ずる)の数式と格闘しているワケで、なるほど、波動力学だから、波動関数が出てくる、複素数だから、その平面は複素平面である、位置と運動量だから、微分が出てくる、で、この積の順序を変えると、qp-pq=ih(iは虚数、hはプランク定数)になると、ふむふむ、概要はつかまえることが出来るのだが、まるで、ロゼッタストーンに描かれた楽譜(score)を読むがごとき作業である。(『可能性と現実性』は、ほんとうは、戯曲と舞台との関係について書きたかったのだが、ちょっと失敗だったなと、反省)。しかし、楽譜は♯、♭が多くなるとまるでチンプンカンプンなので、まだ、こっちの数式のほうが、なんとなく頭には入ってくるようになった。加藤和彦さんは、うつ病歴1年だから、首つっちゃったけど、こっちは35年だ。もうちょっともたせないとイケナイので、いろいろ手をうってはいる。ゆんべは夜中に、『昭和残侠伝』の秀次郎、風間、殴り込みの道行きのシーンだけを6本観た。最初にこのシリーズ観たのは、クラモチくんが連れていってくれた後楽園の映画館で、併映が『緋牡丹博徒』だった。映画観て、初めて泣いたな。そっとクラモチくんを覗くと、彼も泣いてたな。あれはあれでいい時代だったんじゃないかな。さて、ロゼッタストーンだ。うーん。

2009年10月24日 (土)

可能性と現実性・8

ここでもう一度『要項』にもどる。『要項』では〔偶然性〕にどういう記述を与えているだろうか。「統一して資本を形成する三つの過程は、それぞれ時間的・空間的には別々の、相互に〔外的な〕過程である。・・・・・それらの統一は個々の資本家に関しては〔偶然〕である」「資本が生産した商品の価格が実現されるかどうか〔偶然〕のこととなる」・・・このまま読むと何のことかワカラナイのは無理もナイことだ。私たちは、これを演劇にとりあえず置換して論ずれば、それで足りるはずだ。「時間的・空間的に相互に外的な」、というのは、コトバをなおせば「日常的に、それぞれ違った生活をしている」といっておけば、それですむ。次に「資本家」というコトバを私たちは「観客」に置き換えているので、ここまでこの欄で述べてきたことをそのままいっているのと変わらない。くだいていえば、さまざまな観客とでも、思っておけばいい。次に観客が、舞台営為から受けた心象をどう対象化するかも、また偶然だといっていることになる。偶然というのは「あるかもしれないし、ないかもしれない」と同義だが、ともかくも、舞台営為と観客は劇場で、出逢っていることだけは確かな事実である。その両者のあいだには〔偶然性〕(否定的にも肯定的にも)が横たわっている。観客は泣くかも知れないし泣かぬかもしれない。これ自体を〔現実性〕であると考えれば、〔可能性〕というのは、前回で述べたように、対立する両者がいかに止揚するか、という、対立する両者によって産み出された〔剰余価値〕とでもいいたくなってくる。『要項』では、もちろん、剰余価値は資本家の手になるが、演劇においては、ほんらいは、舞台営為も、この剰余価値を受け取れるはずなのだ。それが舞台営為側の〔可能性〕となるはずだ。その〔可能性〕に拠ってのみ、舞台営為は表現を多様な疎外からの代償と成す。とりあえずは、ここまでもどってこられたので、無学の恥をさらすのは、この演目においてはここまでとしたい。

可能性と現実性・7

私たちは〔偶然性〕というものに対して、やや否定的な見解を披露したが(コトバを換えていうと観客に対しての不信)、これはそのまま真逆の異見としても成り立つ。観客は常に〔流動性〕である。ただ、この〔流動性〕に定式を求めるか否かというのが、〔偶然性〕のもう一つの貌というものになる。たとえば、ヘーゲルが世界を精神として観たように、スピノザは世界を人間の手では変えることの出来ない、神自体(神即自然)として観ている。前者が動的なのに対して、後者は静的だ。ギリシャ哲学にもどるならば、この世界はプラトンのいうイデアの産物として存在し、アリストテレスのいう、個体は本質として存在する。つまり人間の手のくだしようはナイ。マルクスが、デモクリトスを却下して、エピクロスを採ったのは、エピクロスの描いた世界が動的であり、かつ「偏り」という〔偶然性〕を含んでいたからで、歴史というものは必然の結果(つまり変わらないもの)なのではなく、数学的にいい換えれば、実無限のような不動のものではなく、可能無限のような、生成の過程を持つ、という、静的世界観への疑いからであったと考えられる。ここで、哲学にそれている余裕はナイので、先に進む。私たちは観客という〔偶然性〕のナニに信頼を置くべきなのだろうか。いまのところ、「病(ヤマイ)もの」映画で感動して涙を流す観客は、過去に「母もの」映画で涙を流した観客と同相だ。結論をいってしまえば、私は、演劇(ここでは演じられる劇として)において、観客に疑問符をもたらせない芝居は、ダメだと思う。これはかなりキワドイ理屈で、単純にその舞台がまったくの駄作でも、観客は疑問符を発するというのがその理由なのだが、それは棄却し、信頼を置くべきところがあるとするならば、観客の「何故」「誰」「どうして」「何が」という、まるで奇術で翻弄された、あの顔つきだ。「これはいったい何なの」と、観客にいわしめること、〔偶然性〕の持つ「たまたま」の邂逅に、〔偶然性〕そのものの自覚を促すこと、もし、今日ここでこの芝居を観なければ、という心情をいだかせること、これが肯定的な観客への信頼というものだ。

2009年10月23日 (金)

放置しているワケではナイ

『可能性と現実性』が滞っているのは、放ったらかしにしているワケではナイ。いま、読み直している量子力学の書籍で、マルクスの学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』が突然現れて、マルクスは、エピクロスの〔偏りの概念〕を高く評価し、〔偶然性〕に軍配を上げているというような記述があったからで、ふつう歴史偏重と思われているマルクスが何故、そういう立場をとったのか、自分なりに考えているワケで、いまさらテクストに向かう能力も気力もナイので、能無しは、ただ、うーんとただ、考えているのだ。しかし、まんざらこの粘りは無駄ではナク、なんとかそれらしい漠然とした答えをみつけつつある。なんとなくが、それとなくワカッタら、再開する。・・・いくらlogicで誤魔化していても、納得のいかないのはしょうがナイらしく、ゆんべも、零時を過ぎているのに、蒲団に座ったまま、大泣きしてしまった。というのも、一昨日、かかりつけの医者に定期診断に行ったのだが、この医師も、急性の胃ガンで命は来年の春あたりだと、公言している。私より二つほど下の、それでも天才といわれたひとで、そのくせ、週一回は東京まで出かけて、日雇い労務の患者を診ている。ふだんは殆ど血圧を計るだけで、世間話などしないのだが、めずらしく、一昨日は彼から「たいへんだねえ、芸術をやっているひとは」と、加藤和彦さんのことで、ちょっと雑談した。私が「うつ病の希死念慮は、覚悟でも、苦慮でもなく引っ張られる感じですから」つまり、うつ病というのは、自己存在の否定であるから、それは自らの死を持って完成するというのが理屈なのだ。と、医師は「死に神ってのはいるんだねえ。むかしのひとは、そういう引っ張られるのを死に神と呼んだんだな」と、しみじみ述べられたのである。来年春までの命だというのに、この黙々粛々として、患者と接する覚悟は何処からくるのか、とても私には真似出来るものではナイ。窓口で老婦人が「もうしわけありませんね、私のような軽い病気のものが診てもらって」と何度も礼をいっているのが聞こえた。私は深くこうべを垂れるしかナイ。

2009年10月19日 (月)

哲学者のマーケット

木坂涼さん(詩人)も、中日(東京)新聞の『けさのことば』にとりあげられるほどのひとになった。(19日朝刊)。『音の方舟 モーツァルト』から「外気には なぐさめがあります」。彼女は私たちが、まだ東京本多で公演をつづけているときからのファンで、一緒に軽くいっぱい行ったとき、「私は想さんのお嫁さんになりたいと思ったりしたんです」と、なんとまあ「お嫁さん」である、可愛いことをおっしゃるひとだった。彼女にパンフレット用の、短い詩をたしかお願いしたこともあった。彼女もいまは50歳を過ぎて、こないだ、一冊、著作をプレゼントしていただいた。・・・たしかに「外気」にはいいものがある。閉じ籠もり派の私などは、煮えつまり、行き詰まると、ともかく外に出る。行く先はたいていマーケットなんだけどネ。詩的ではナイが、あの活気が好きなのよ。でも、最近は、客のみなさん、みんな、いい顔してないなあ。みんな哲学者みたいに眉間を凝らしている。新聞では、野菜は値下がりの傾向と報じられているが、そんなことはナイ。キュウリ一本38円。ついこないだまでは35円だった。この3円の差に、私などは、4本のところを3本にして買うのである。しかし、もやしは安いなあ。タネは中国だからなんだろうけど。今年の秋刀魚も終わって、ああ、秋刀魚苦いかしょっぱいか。「あわれ 秋かぜよ 情(こころ)あらば伝えてよ・・男ありて 夕餉にひとり さんまを食らいて 思いにふける と」(佐藤春夫「秋刀魚の歌」)・・・・さて、本日は、出稼ぎです。

2009年10月18日 (日)

可能性と現実性・6

〔偶然性〕というものについて語るうえで、留意しておかなければならないのは、ニュートン力学と量子力学とでは、範疇がまるで違うということだ。中津川の演劇キャンプでお世話になったMさんから、岐阜での神人(じにん)田中守平(「大霊道」の創始者)の資料をもらって、感想を求められたが、私にワカルのは、この宗教者をはじめとして、あらゆる新興宗教(『幸福の科学』からなんじゃもんじゃまで)の論理は、すべてニュートン力学と量子力学をごちゃまぜにしているということだけだ。たとえば、ここに一個のリンゴがあるとして、そのリンゴを放り投げるとする。そうすると、リンゴは放物線を描いて、あるべきところに一個で着地する。ところで、このリンゴが数個に分かれて、着地してしまうというのが、自然の実相だといっても、まさかそんなバカなことがと、誰しもが信じない。しかし、自然のほんとうの姿というのは、そうなのだから仕方がない。もう少しいうと、リンゴの着地点は確率によって分散してしまう。誤解しないように付け加えるなら、これは理論的帰結であって、実験、測量の問題ではナイ。後者は量子力学のことを述べているのだが、量子力学には、実験、測量という概念は入り込まない。ここではカール・ポパーの「反証法(反証主義)」は何の役にも立たない。何故なら、〔偶然性〕というのは、自然の持つ「根源的性格」なのであるから、偶然を実験することなど不可能だからだ。量子力学で知られるハイゼンベルクとニールス・ボーアの「不確定性原理」を説明するのに、電子に波長の違うガンマ線を当てて、その位置と運動量が同時に求められないことを記している物理学の本は、やまほどあって、それはいつも私の頭を混乱させてきた。何故なら「これは実験ではナイのか」という疑問符から抜けられなかったからだ。たしかにこれは実験である。ただし、これはハイゼンベルクが述べた「思考実験」の例示なのだ。そこに至るまでの、私のノータリンの脳を納得させるのに、その手の書籍が、20冊あまり、本棚を占拠している。なんというバカであるか。・・・もちろん、観客の〔偶然性〕はニュートン力学であるが、そう安易に二つを分かつのもせっかちである。スピノザは〔偶然性〕など認めなかった。何故なら、彼にとっては「神即自然」だったからだ。アインシュタインの信仰もそこにあった。従って、あの有名な「神はサイコロをふらない」というコトバが飛び出すことになる。ただ、スピノザは人間を自然の中に数えながら、未だ完成ならざるものとしている。この言明は否定するものではナイように思う。私たちが観客を〔偶然性〕というとき、そこには、舞台営為者の〔可能性〕との〔流動性〕をともに考慮しなければならない。もちろん、それ自体で強く流動するのは観客の側だ。公演後「感動しました、また絶対、次も観に来ます」と、握手までして帰った客が、ほんとうに次の公演を観に来たことなどありゃあしねえ。私たちの感じる空虚は、たいていが、この〔流動性〕から生じている。柄本明氏が「観客なんかいないほうがいい」といったり、私が「本番さへなければ芝居は楽しいんだけどなあ」といったりするのも、そこにみなもとを持っている。そこで、観客は単純に、貨幣という形態として割り切られることになる。観客と集客動員数のあいだに等号(=)が引かれるのも無理からぬことなのだ。

失うものしかナイ

「私には失うものはもうナニもナイ」というせりふがあるが、私の場合はもう「失うものしかナイ」。加藤和彦さんが、自死。死因はうつ病で、1年ばかり患ってらしたようだ。うつ病の希死念慮は、同病の者にしかワカラナイ。それで、周囲は不可思議、奇妙、と戸惑っているようだが、私にはよくワカル。加藤さんは、私が初めて書いたミュージカル『不思議の国のアリス』(伊藤つかさ主演、三越ロイヤルシアター、公演年忘却)で、私の拙い歌詞にすべて曲を書いてくださった。しかも、一字一句、歌詞に注文をつけてこられることはなかった。出演者が口ずさむほどのいい曲ばかりだった。「思うように創れない」という旨の遺書が残されていたそうである。私も、ここんとこ、思うように書けない。そこで、passionからlogosへと逃亡しているという寸法だ。きょうは、以前読んだ量子力学の本をもう一度あたまから読み直すつもりだ。虚数(複素数)をあらためて勉強したので、また違った読み方が出来ると思う。ともかく、積極的逃避(川島雄三監督のコトバ)しか、ナイ。それにしても、死が多すぎる。

2009年10月17日 (土)

可能性と現実性・5

ここで、戯曲の〔可能性〕と舞台の〔現実性〕を問うことにする。私たちはこの演劇の欄でいつも戯曲のことを「書かれた演劇」として扱ってきたし、舞台表現を「演じられた演劇」として扱ってきた。それらは相互に独立していつつ、架橋するものだ。いうなれば、私たちは戯曲の読者のままで演劇を終えることも出来るし、戯曲を読まなくても、舞台で観劇して作品を終えることも出来る。経済学としていえば、戯曲は書籍として商品という形態を持つことが可能であるし、観劇はチケットを購入して座席を買うという形態で、ひとつの商品である。・・・誤解のナイようにいっておけば、戯曲は〔可能性〕であり、舞台表現は〔現実性〕であるというのはいささか尚早だ。そのいずれにも〔可能性〕と〔現実性〕が含まれるのはいうまでもナイ。戯曲は書きコトバという言語を持つことによって、心象を文字言語として表現することが出来る。これは心象の表出を表現するひとつの〔可能性〕である。その逆に、ちょどパラドクス(paradox)として、戯曲は書きコトバとしてしか心象の表出を表現出来ないという〔現実性〕を含む。舞台表現も同様のことがいえる。ここでは、主に音声と身体という表現形態をとることが出来るが、音声は音声言語として言語活動をするとしても、身体は言語ではナイ。〔現実性〕の多くはこの身体というものにのしかかっていく。マルクスによると、人間の手を加えたモノは、すべて人間の身体の延長としてとらえることになる。これは養老孟司さんの『唯脳論』における、「脳は脳に適した環境を創造していく」という定義とよく似ている命題だ。ところで、身体の持つ〔現実性〕がやっかいなのは、人間が個々それぞれ違うという、単純なことから、身体にハンディを持つ者(最近では「障がい者」などと一部を平仮名にした表記が目立つが)にいたるまでを包括していることである。これは、「人間というのはひとのカタチをした自然である」という唯物論ではかたづかない問題(〔現実性〕)である。とりあえずは、現在のところ私たちは、そういう問題提起をするだけに留まる。この二つのアポリア(難題)を解き崩していく力はなく、絶え間ない試行錯誤に頼らざるを得ない。

2009年10月16日 (金)

可能性と現実性・4

また横道にそれるが「可能性」と「現実性」という概念は、実存主義としても理解出来る。つづめていえばハイデガーは、人間という存在(現存在)の「可能性」を哲学したといってもいいのではないか。サルトルまでいくと、単に彼の実存の定義(『実存主義とは何か』)はギリシャ哲学のプラトニズム、アリストテレスを否定したに過ぎない。・・・私たち人間は幸か不幸か、コトバ(言語)を持つことになった。そのために、ココロのうちを表現出来ることになり、逆にココロのうちを表現出来ないという疎外に陥ることになった。心的表出が言語に換言出来ると考えたウィトゲンシュタインの言語学には、すっぽりと言語表現の持つ本質的疎外が欠落しているように思う。そんなことは、物書きとして(私の場合は劇作家として)、心的表出を表現(言語)に転化していくときにいくらも感ずることだ。私たちは、コトバ(言語)=表現を拡張しようとして、ホンを書くのではナイ。心的表出の〔無意識〕と〔顕在〕の深い闇をいかにして埋めていくかに腐心しているのだ。そこでは「ホット」といえば温かいコーヒーが出てくるなどという言語ゲームのような、楽観的な〔現実性〕は用をなさない。「可能性の文学」というのは織田作之助の命名だが、現在それは戯曲のためにあるようなコピーだ。何年か前、演出家の佐藤信さんが、ふともらしたコトバがあって、実は佐藤さんは岸田戯曲賞を受賞していながら、戯曲は数本しか書いていないらしく、「ひさしぶりに戯曲を書いて、ラストシーンに、燃え上がる船が天空から降りてくるなんて、書いたけど、どうすんのかね、しかし、いいよね、戯曲は何でも書けるから」てなこと笑いながらいうのである。私もうんとむかし、「仏壇が炎を吐いて、宙を飛ぶ」というラストシーンを書いたことがあったが、当時の私たちの財力や技術力では、これは実現出来なかった。「仏壇を飛ばすのには、何か強力がゴムが必要だが、そんなゴムはナイ」という結論をもって、このシーンは却下された。私の戯曲塾では、戯曲は舞台になるのを前提として書かれるものではあるが、これは舞台では不可能だろうというようなことを予め、禁じ手としなくともいいと教えている。ここでは「書かれた劇としての戯曲」という〔可能性〕と「演じられる劇としての舞台」という〔現実性〕があるだけだ。この戯曲の〔可能性〕は散文(小説)のリアルティとはまったく違うところだ。最近の小説は、ミステリを書くか、ねちっこいラブストーリーを書くかすれば、一発アテルことが出来るようだが、戯曲はそうはいかない。そのぶん、家元(談志師匠)のいうように、戯曲もまたillusionなのかも知れない。

2009年10月15日 (木)

可能性と現実性・3

〔偶然性〕というのは、観客の多様性や個別性というふうにいってもいい。つまり、いま、どんな観客が、観客席に座っているのかは、舞台営為側には、ワカラナイということだし、それは誰が決めたことでもなく、まったくの偶然のことで、そこにいるのは、肉体労働者かも知れないし、デスクワーカーかも知れないし、評論家かも知れないし、老若男女、趣味趣向、さまざまな連中が集まってきているということだ。したがって、舞台の〔観方〕もとうぜん違ってくる。ある者は感動するかも知れないし、ある者は居眠りをしだすかも知れない。こういう対象に対する観方の違いを最初に問題にしたのはカントだと思われる。デカルトまでは「我思う、ゆえに我在り」という〔理性〕を信じていた。この場合の〔理性〕とは人格の問題ではなく、神から授与された人間の能力である。それをカントは『純粋理性批判』というカタチで切って棄てたのだが、ニーチェもまた、自己が対象とに接するのは、単に解釈の違いに過ぎないと述べている。この問題に真剣に取り組んだのが、フッサールの現象学である。フッサールは、「本質直観」による「判断停止」というカタチでいったん客観というものを棚の上に置いた。そこから「想像変容」が始まる。この辺りは、面倒なのでサクサクといってしまうが、吉本さんも、党派性の問題として、これを〔関係の絶対性〕(『マチウ書試論』)と名付けてとりあげている。さて、私たち舞台営為にたずさわる者としては、この〔偶然性〕にどう対応し、どう処理すればいいのか。とりあえず、如何なる毀誉褒貶、賛否両論も許容せねばならない。というのが、私の立場である。しかしながら、どのような〔偶然性〕であろうとも、その観客の〔価値〕を引き上げるという営為としての演劇営為をもたなければならない。というふうに進むしかナイ。つまり、観客の〔現実性〕と私たちの〔可能性〕を、ひとつの対立形態(矛盾)として、それを止揚する〔可能性〕を私たちの演劇営為の中に持つべきだ、というのが、私の考えであり、理想である。ことわっておくが、これは観客を教育することとはまったく意味が違う。私自身、演劇(芝居、舞台)をお勉強のためにみせられるのは冗談じゃねえ。具体的な私の方法論をいえば、常に観客席に、〔私自身〕をひとり座らせておくことだ。そやつを眠らせないよう、退屈させないよう、そやつの三千円を無駄にさせないように、心配るのが、こっちの仕事だと思っている。次回は、ちょっともどって、戯曲と舞台における〔可能性〕と〔現実性〕について考えてみる。

可能性と現実性・2

こういう、いわゆる「難しいこと」を書くと、読者が減るのは歴然としている。とはいえ、読んでくれている読者がいるということが、なによりの頼りなのだ。演出とはなにかを知らない演出家、評論とはなにかを知らない評論家、演ずることと演技とが一緒だと思っている役者、戯曲とはなにかを知らない劇作家。そういう擬制が大手を振っているあいだは、~やがて夜明けのくるそれまでは 意地でささえる夢ひとつ~(『唐獅子牡丹』)という心境にあるのは、むかしもいまも同じことだ。・・・本論、多少のずれがあるが、観客の側(『要項』の資本を置き直している)から、観客というものについて述べてみる。「労働それ自体に価値はナイ」といったのはほかならぬマルクスである。では、その価値というのは何処に具現されるのか。同じくマルクスのコトバを借りると「労働の対象化」ということになる。これは最初、私には何のことかまるでワカラナカッタ。しかし、あの吉本(隆明)さんですら、『資本論』で思考が煮詰まったときには、三浦つとむさんに教えを請うているのだから、私ごときが、挫けるのはもっともなことだ。「労働の対象化」というのを例示してみると、たとえば、一日の賃金が六千円くらいあるとして、そこから家賃分や光熱費をとりあえずとっておいて、食費に残りの一部を充てる。ひとは食わないと生きていけないので、食う。何を食うかというと、食いたいものを必ずしも食うワケではナイ。五百円なら五百円のものを食べる。これで、血となり肉となり、とりあえず肉体の再生産が出来る。読書しながらお茶を飲む。買ってきたハーブティーでもいいし、喫茶店でもいい。精神の憩いというものだ。ここでも自らの労働(心身の消費)によって得た賃金で自らを生産する。むろん、このときも代金を支払うワケだから、それは消費に該る。さて、きょうは三千円のチケットを買って芝居でも観ようかという気になる。この三千円は消費だが、観た演劇は自分の生産に充てられることになる。こうして、労働はそれぞれの対象に対して消費=生産へと充当していく。ここに価値があるという、それを「労働の対象化」という。それが、いまこの欄で論じている〔現実性〕というものに該る。では、観客は、劇場で「どうなる」のだろうか。もちろん、自らを生産するワケだが、それは、舞台(演劇)の営為者からみると、観客というものを生産していることになる。観客というのは、そこでは生産物として位置づけられる。観客の〔現実性〕は演劇営為の側から創った生産物である。通り一遍の図式を示すと、そういうことになる。つまり、観客は演技、演出(舞台営為)の生産物として出現し、舞台営為は観客の〔現実性〕として現れる、という方程式が成立する。このとき、重要なのは、この場合、観客は資本であるから、その〔富〕は観客が保有しているということだ。したがって、この〔富〕を得んとして舞台営為が働くと、「舞台営為の可能性は、他人のための存在として措定する活動として現れる」ことになる。さらに、観客の持つ〔現実性〕には〔偶然性〕と〔流動性〕が含まれる。

2009年10月12日 (月)

可能性と現実性・1

マルクスの『経済学批判要項』において、マルクスの経済学を演劇に置換してみる(たいてい私の演劇学はさまざまな学問を演劇に置き換えることで成立させてきた)。『要項』では最初の貨幣というものは、資本としての〔可能性〕をもった貨幣である。これを「貨幣としての貨幣をやめたことによって資本の〔可能性〕として生成しつつある貨幣」と表現している。私の『貨幣と演劇』論からすると、この「貨幣」というのは「演出」と置換することが可能だ。(この欄の同項を参照)すると、ここでいわれている「資本の〔可能性〕として生成しつつある」とは、どういうことになるのか。私たちはまず、この「資本」というものを演劇に置換するところから始めることにする。漠とした想念から発すると、この「資本」というのは、スポンサーであり、観客である像が浮かぶ。その上で前言をいいなおしてみると、「演出としての演出をやめたことによって、観客の〔可能性〕として生成しつつある演出」ということになる。この方程式は、いまの演劇状況を意外にうまくいいあらわしているように思える。ひとつに、演出のシンパシーを観客側から引っ張ってくるというものであり、ひとつに、演じられる劇の主体を観客に委ねるということであり(観客の主観によって成立すればよいということであり)、俗っぽくいってしまえば、観客あっての表現(舞台)であるということになる。そこでは、貨幣が資本に転化するというあの剰余価値というのは、観客の消費=生産を差っ引いた分の、演出、演技、戯曲に該る。ここでは観客の〔可能性〕が演劇の主体となってしまうため、表現は観客における〔現実性〕へと転化することになる。如何なる深遠な配慮を含んだ演劇の〔可能性〕も、観客の「きょうの芝居は感動したね」という〔現実性〕において、凌駕されてしまうことになる。これはまぎれもなく、表現(者)に課せられる〔疎外〕である。この原因は何処にあるのか。おそらく、戯曲を演じられた演劇に架橋するときに、戯曲の〔可能性〕を演出と演技によって〔現実性〕へ持ち込む方法論、志向性、世界観、思想性、にその根拠があり、戯曲の〔可能性〕が〔現実性〕に移行するさいに受ける本質的な疎外とは違うものだ。

2009年10月10日 (土)

善意の意味

近隣の友人宅で受信料放送局の『楽屋』を観る(私は受信料を払っていないので)。私などが語るのはおこがましくて恐縮なのだが、清水さんのこの戯曲に対する好感は、おそらく、女優に向けた〔善意〕で満ちあふれているからに違いない。1977年の作品で、私は例によって不勉強で、清水さんの他の戯曲は数曲しか知らないけれど(映画は脚本を読んではいないが『竜馬暗殺』を観ている。いい映画だったなあ)時代の潮流であったpoliticalな要素のナイ、おそらくはチェーホフをmotivationにする戯曲のお手本(prototype)のようなホンである。私は映像の舞台を観ながら、この女優たちに対する〔善意〕は何なのかということをずっと考えていた。もちろん、私が業種として、その世界の裏も表も知っているように、同業者の清水さんも、女優というものがどんな難物であるかを知り尽くしていたはずである。演ずる女優ABCDはそれぞれ突出し、この舞台にはアンサンブルなど不要なのだということを知らされる。チェーホフというスタンスを置かなければ、オリジナルでは泥仕合になる際どい作品なのだ。生瀬演出は、その〔善意〕よく汲み取って、それぞれの個性がひとり相撲に終わらぬよう、適切な配慮をみせていたように思う。しかし、この〔善意〕は何なのだろう。来年の二月、アベックビーズ公演の女優たちを相手にするとき、おそらく私は再び、この〔善意〕の意味を考えさせられるだろうと予感している。

この丘だったかな

きみは 丘にいるのか

きのうの夏が きょう秋になって

とどいていたメールがとだえ

ふと私は正気にもどって 窓を開けたが

きみは 丘にいるのか

あの丘に 

それならそうと いってくれないと

それで きみは 丘の どこにいるんだ

いくらさがしても きみの姿 は みえず

でも たしかに 丘にいるんだな

こっちがわか むこうがわか

きみは丘のどっちがわにいるんだ

それとも丘のうえにいるのか

私は丘のうえまで歩いてきてみたが

光ばかりがまぶゆくて ゆっくりと吹く風に

光がひとしく はりついて

私をつつんでくれるのだけれど

きみの姿が みえないのは

どういうことなんだろう

きみは丘にいるのか それとも 

この光がきみなのか

私は迷ってしまって また狂人のふりをしているぞ

ああ、でも

きみと出逢ったのも この丘だったな

きみの下宿は ひっそりとして

書物ばかりが 堆く積まれ

あれは きみの 墓標だったのかい

そんな記憶がふいに過って

私は丘に 歩いてきてみたけれど

どうして 涙が出るんだ

丘にきてみただけなのに

きみは 丘にいるのか

では、私は 私も 私は ここに座るよ

この丘だったかな ああこの丘だったよな

うん うん うん

私はうなずいて  ここに座るよ

いい とてもいい ひかりだな

2009年10月 8日 (木)

嵐とともに逝きぬ

二年ぶりかの嵐が去って、クラモチくんは逝った。彼らしく癌と闘病し、重篤の身でありながら、私の癌に対する質問に懇切丁寧に答えたメールをくれたのが、つい最近。彼の大学時代の友人から、いつ訃報の電話がくるか、私は内心わらわらとした毎日を過ごして、思い出が去来するたびに涙ぐんでいた。・・・18歳からのつきあいで、彼はたしか三つほど上だったと思う。私の運命のひとであり、彼ナクば、いまの私はナイ(そんなに誇れた私でもナイが)。肝胆相照らす友であり、生き方の師匠であり、恩人であった。ほんとうに最後まで、最後の最期まで、彼らしく病と闘った。感動悲話などのような俗っぽい闘い方ではなかった。私はココロの整理がつかないので、通夜にも、告別式にもいかない。いったら号泣するに決まっているから。もう少し落ち着いたら、お参りさせてもらう。とはいえ、その大学時代の友人が電話の向こうで「骨は拾ってきます」というコトバに激しく落涙した。訃報は大阪での仕事の直前に入ったが、私は、平然と北村想を演じてきた。その程度には私も強くなったのだと思う。しばらくは喪に服すつもりだ。

2009年10月 6日 (火)

塩まいておこうっと

あんまり深刻になっちゃヨクナイです。深刻はろくな結果をもたらさない。鶴亀鶴亀、塩でもまいておこう。劇作家のH氏から、『ヴィヨンの妻』についての考察というか、質問メールをもらったので、返信もし、またこの欄の前稿で少し書いたが、まったく憶測、推測の域を出ない誤読を承知でいうなら、太宰はあの作品にドストエフスキーの『罪と罰』を意識していたのではないかという気がする。つまりはラスコーリニコフと、ソーニャだ。かたや大長編だが、太宰はそれを短編でみごとに仕上げた。ヴィヨン(フランスの放蕩無頼の詩人)であるところの主人公=大谷(太宰の分身でしょうが)は、H氏の指摘するように、その妻にラストシーンで神を観たのかも知れない。「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」という、妻の最後のせりふは、たしかに免罪のコトバとみえるからだ。映画『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ』での田中陽三さんのシナリオは、ここをさらに深く掘り下げていて、一種の聖書理解となっている。

なべて世はこともナシ

トヨタ自動車グループの豊田通商が、自動車用次世代電池の原料確保に向けて、アルゼンチンでのリチウム採掘事業に参入する方針をあきらかにしたのは、耳に新しいことだ。いわゆるレアメタル(希少金属)の獲得である。パソコンも、携帯電話も、ハイブリッド車も、レアメタルなしでは成りたたない。で、現地のサルタ州では、現地民がガタロとなるのである。泥の川に入って、笊で泥をすくい、出るか出ないか、女性も子供も、ガタロするのである。出たところで、なんぼの収益になるのか、親方に多くはピンハネされて、子供は、そのレアメタルの行く先すら知らぬ。てなことになっているんだろうなと、私の想像である。・・・サモア諸島を台風が襲い、被害は数千人という。私たちは子供のころ、こんな歌をうたった。~青い青い空だよいつもの空だよ サモアの島常夏だよ~ みんな集まれいつもの広場に サモアの島楽しい島よ~風が吹く静かな海、鳥は飛ぶ飛ぶ波間をぬって~ララ船出を祝い無事を祈るみんなの声がよびかける~・・・こんな情勢に思い悩んで、ため息をついていてもしょうがナイらしいのだ。私は自分のことしか考えない、まったくやさしくない男で、では、やさしい男というのはどんな男かというと、自分の奥さまを自動車で送迎するような男である。女性はなべて、そういう男と結婚したほうがいい。皮肉をいっているのではナイ。それは正しいと思っている。椿屋のさっちゃん、もまた太宰の理想に過ぎない。

2009年10月 3日 (土)

理にて想う

生まれ来て 何も求めず 死にいたって 何も残さず

理想をいえばそうなる。「おまえの素質と力をもってゐるものは 町と村との一万人のなかになら おそらく五人はあるだろう それらのひとのどの人もまたどのひとも 五年のあひだにそれを大抵無くすのだ(中略)すべての才や力や材といふものは ひとにとどまるものではない ひとさへひとにとどまらぬ」(宮沢賢治『春と修羅』第二集三八四「告別」)・・・私の学んできたものは、たとえば、寿命ぎりぎりまで学んできたものは、いったいそれをどこで使うのだろうか。八〇年なら八〇年の勉学を活かすとき、私はおそらくもうこの世にいない。では八〇年分の勉学は何のためにするのだろうか。その結果は、死に際に試験があって結果が出るものでもナイ。では、八〇年の勉学は無意味、無駄なのだろうか。空疎なものなのだろうか。そうではナイ。その勉学そのものが、結果なのだ。ひとが生まれて生きて死んでいくのは、プロセス(process)ではナイ。それそのものすべてが結果なのだ。証明なのだ。人生というのは時間ではナイ。人生というひとつの現場である。

2009年10月 2日 (金)

映画感想『カムイ外伝』

『カムイ外伝・スガルの島』のあらすじ(synopsis)をみせられているような、薄っぺらい脚本の映画だった。『カムイ伝・一部、二部』も『カムイ外伝』もすべて読んでいるが、これって、何のハナシ?って感じだ。プロット(plot)もへったくれもナンニモナイじゃないか。少なくとも、どうひいき目に観ても、崔洋一監督が中日(東京)新聞『エンタ目』で四カ月に渡るべく展開しているこの作品への自信がどこから来るのかワカラナイ。あのな、誰だって映画や演劇を創るのは苦労してんだ。とりあえず、宮藤官九郎(他、崔洋一、佃典彦)の脚本(スジ)は完璧に失敗していると思っていい。唯一、救いになるのは、それでも健気に一所懸命のサヤカ役、大後寿々花の演技(ドウサ)だけだな。崔監督は、今年の『劇王』(二月)で、劇作家相手に偉そうなことを吹いてやがったが、てめえこそ、もちっと勉強してから映画撮ったほうがいいぜ。これは一映画ファンからのイエローカード(レッドにしなかっただけでも、ありがたく思え)である。

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