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2009年9月16日 (水)

巷の売文業からひとこと・補

結論からいえば、コトバ(言語)というものは、それ自体では論ずるべき対象ではナイのだ。たとえば、「心は泣いている」というコトバがあるとする。つまり、涙こそみせないが、心では泣いているということだ。こういうことは生きていれば少なからずあるのだ。現に私自身も、まるでカミュの『ペスト』のように、現在知己五人が癌と闘病していて、その諸行無常に「心は泣いている」が、眼から水滴が落ちることはナイ。これを、目の前の他者に音声か文章で伝えたとする。しかし、私は涙を流してはいないので、それは、「表現」として識知されるだけで、「現実」の出来事としては認識されない。つまりコトバ(言語)は〔表現〕としてしか論議の対象にならないということだ。かつ、コトバ(言語)は発せられなければ、箴言も金言名句も立て看板の注意書きも、成立しない。発せられるコトバ(言語)としての〔せりふ〕を扱う劇作稼業としては、それを発する主体の存在を常に念頭に置くので、「心は泣いている」というコトバをドンファンが口説き文句に発しても、先述したように私が発しても「心は泣いている」は「心は泣いている」としか音声にならないし、文章にもならないが、そこに表出の違いがあるのはあきらかである。たとえば、前回の「傷を完治されることをお祈りします」を医師が患者にいうせりふだとしたらどうだろう。これを「傷が」にしたらどうだろう。敬意は相手に対してではなく傷に払われているだろうか。この辺りが、コトバ(言語)に対する町田さんとの考え方の違いである。この表出の違いを構造主義言語学では、主体なき言語てなふうに捉えるのだが、劇作を生業の私からしてみれば、舞台では、「誰」がそのせりふをいうかが重要なので、誰かは必ず存在するのだ。(もっとも、『ゴーシュの夜の夜』(拙作)では、第三の登場しない人物のせりふとして、あるせりふを挿入する実験をしたが、これは宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』自体がそういう構造をもっていたからこそ出来たワケ)「理を攻めて云ひ勝はあしきなり」(道元『正法眼蔵随聞記』)

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