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2009年9月

2009年9月25日 (金)

報告・3

頭の中に雑音がまだ残っているような感じで、自動車を観るだけで、目をそむけてしまい(なにしろ、車移動ばっかりだったもんな)、大丈夫かなと、「詩」なぞ書いてみて、上弦の月の他は作り事ではあるけれど、まあ、いいんじゃない、と、ちょっと安心(ほんとはさらに書き直した)。この欄も全削除して、もう一度書いている。・・・二日目はシンポジウム『全国の女性演出家大集合』、敵にまわすのは承知の覚悟で書くけれど、さほど期待はしていなかったが、あれが、いまの若手(でナイのもいらしたが)のレベルかと、呆れてしまった。出るかと思ったジェンダーもやっぱり出たが、おつむの程度というのは、男も女も関係ねえだろ。演出とは何かにおいて、その方法は個々の演出家に在るだろうけど、〔演出〕というそのものについては演出家の数だけあるとは考えていないので、かなり前にここにたしか『貨幣と演出』とかいうタイトルだったかで、私の演出論は提示してみたが、その気があれば、読んでもらえれば幸い。で、当方、呆気にとられたのは、「では次は言霊についてです」という論議の進め方だが、このシンポは、事前にパネラーにアンケートがとってあったらしく、そういう質問もあったようだ。つまり言霊をどう考えるか、である。正直、みなさん、気は確かかと不安になったし、こっちの気が狂ってしまうような危機も感じたが、何かメタファーを語るのかと思いきや、みなさん、大真面目に言霊について意見を述べられるのである。お集まりの演出家女史は、役者に向っていうのかね、「ここは言霊出してよ」と。そんなものは、演劇生活35年の中で一度も観たことはナイ。で、「魂は肉体の中にあるのです」では、コントのオチにも、落語のサゲにもなっていない。殆ど新興宗教だな。私は精神病だけど、私のほうがまだマトモだぞ。・・・お次は外波山文明さんの一人芝居『四畳半襖の下張り』、これが清めの塩になったようだが、さすが肉弾戦の話なので、顔を伏せてた若い女のこの観客もいたなあ。性愛、肉欲はひとの本性だが、恋とは違う。恋は誰とでも出来るというものではナイ。何故なら、恋にはインスピレーションが必要だからだ。(愛というのは、この歳になってもワカンナイんだけども)

上弦の月

壁 もたれて タバコ  火ぃつけると

セメントの冷たさ 背中に心地よく

空には上弦の月 低く 明るく 街の灯は暗く

センチメントな夜でもナイのに まるで知らぬ他国にいるみたい

風にたゆとう煙のような うねりくねった こんな人生で

俺は 三回 恋をした

あなたは一度も好きだといってくれなかったと 彼女は泣きくずれ

生まれた子供にあなたと同じ名前をつけたのと 彼女は泪目でじっとみつめ

あなたの奥さんをにらみつけてしまったわと 彼女は無理に笑って黙り込んだ

三人の誰ひとり 抱きもせず ただ失うだけで

ひとり失うたびに 一つ人生が消えていき

いまこの人生は まったくちがう 人生だろうけど

それも タバコの煙とおんなじで 残るワケではない

満ちていくのか 欠けていくのか 空には上弦の月

センチメントな夜でもナイけど うた ひとつ

知らん顔して うた ひとつ 

2009年9月24日 (木)

報告・2

常磐座という民間歌舞伎の小屋は、かなり演劇人の食欲をそそる小屋で、平成になってから補強されたが、明治の姿をそのまま残している。おまけに、新築された総檜づくりの楽屋があって、これが一流料亭みたい。ここで合宿出来るような経済的余裕があるといいなと、つまり二ヶ月くらいかけて、ここで一本の芝居を創って上演するのであるが、それは夢のまた夢。オープニングシアターはまずシンポジウム。これは事前に打ち合わせがまったく出来ていなかったようで、カス企画。こういうのは時間の無駄というより、無駄な時間。お次が「土着民」という名の中津川フォークジャンボリーの生き残りおじさんたちのフォーク。シンポの時間が押したらしく、えらく早く終わって残念企画。フォークはfolkloreなんだから、「土着民」がやっていいのだ。このひとたちは、無名だからこそ、いいのだ。最後が、男女一組の大道芸(一輪車)witty look。この女性のほうが、2008年若手演出家最優秀賞を受賞している。私は客の動向やその女性の誘導の芸が観たくて、終始うしろで観ていたが、次の日に彼女にそのことは釈明しておいた。「同業者の前では難しいんですよね」と彼女の弁。いや、なかなか見事な客扱いでした。パンフにはボディランゲージの天才と書かれていたが、直訳すると身体言語。身体は言語ではナイので、ボディパフォーマンスとしたほうがいい。かくして一日目は終わる。私は民宿泊。缶ビールを買って帰ったが、半分ほど呑んだらで眠くなって寝る。 

2009年9月23日 (水)

報告

2009演劇キャンプイン中津川(主催日本演出家協会・他)に四日間、「来て」といわれたので、「じゃあ」というワケで(ほんとにそんなワケで)参加。別に特に用事はなくぶらぶらしていればいいといわれたのだが、各会場の距離が遠いので、会場に行って催し物を観るしかすることもなく、私としては1年分(3年分か、5年分かも知れない)のセミナーやらシンポジウムやらを体験する羽目になった。初日の目玉は、柄本明さんの演技セミナー。常盤座という古い民間歌舞伎小屋のすぐ隣、神社の社務所で、十数名の参加者と、その三倍くらいの見学者を相手に行われた。この件に関して、翌日岐阜中日に『商業主義の風潮批判』という見出しで、記事に「柄本さんは演技で人を感動させるのは良いが図々しいのではないか」(これも奇妙な文脈なのだが)「最近は人を泣かせようとする感動病がまん延している。みんなを一つにしようとする悪意を感ずるなどと、商業主義的な風潮を批判」とあったが、(柄本さんの名誉のためにもいっておくが)そんな発言はレクチャーの中にはまったくなかった。おそらくは事後取材で仕入れたネタ(柄本さんが新聞記事向きに、その記者のレベルに合わせていったコトバ)なのだろうが、そういうワカッタようなことを客観的に書くべきではナイ。実際に、セミナーで柄本さんが展開したのは、最も難しい演技論で、たぶん、参加者は答えを出さない柄本理論に(しかも、それを面白おかしく、笑いまでいれながらやられるもんだから)今後、悩んで七転八倒するに違いない。おそらく全貌を理解するには、私くらいの能力は必要だとおもわれるからだ。柄本さんの論理の根本は、弁証法なのだが、柄本さんのスゴイところは、けして海外輸入の論理ではなく、また「身体論」には踏み込まなかったことだ。この辺りに柄本さんの配慮というものがあるのだが、おそらく、気づいている者はいなかっただろう。それでも、これまで演劇を「教育」されてきた役者の受講者たちには、猛毒のセミナーで、皿まで喰らう覚悟がナイといけない。受講者たちには、そういう勇気をもってもらいたいと願う。 

2009年9月18日 (金)

映画情報『カイジ』

最近の映画プロデューサーは、マンガしか読んでナイから(まるで前首相だな)映画がツマンナイのだと、元劇団員の映画愛好家がいっていたが、この映画を観ると、彼の弁もよくワカル。こういうモノは大人の観るモノでもなく、また大人の創るモノでもナイということがよくワカルのだ。よく突っ込みどころがあるとかどうとか、映画ファンがいうのは、まあそれでもゆるせるからという、ひとつの愛情なのだということをよく、この映画制作(製作)関係者はココロに刻んでおいたほうがいい。何故なら、この映画にはナニを突っ込んでもしょうがナイと思われるからだ。要するに、みなさん、この映画のスタッフもキャストもナニか大きな勘違いをされているのか、ただのアホか、いずれかだと判断するしかナイというのが、私の感想というより診断である。香川照之などはいい役者なのに、不遇だなあとまたため息をついてしまう。監督(佐藤東弥)はテレビのひとである。これが映画初監督らしい。テレビのひとが映画を創ると、誰が創っても、テレビドラマが大画面になっただけ、なのは、何故なのか、映画批評家には本気で考えてもらいたいとも思う。ともかく、ハナっからこれってコントじゃねえだろうなというプロット(ここでは展開の意)に、笑っていいのかそうでないのか、迷ったあげく、けっきょく笑った。金融大手の会長が社員を集めて「金は使うことに意義がある、ではナニに使えばいいか」と、訓示するシーンから始まるのだが、その問いかけにナンバー2が「核シェルターを造ることです」と答える。「アホか」と漫才なら突っ込むところだが、会長が「そのとおり、地下王国を築くのだ」と、大真面目になにやら江戸川乱歩の『パノラマ島奇譚』みたいなことをいいだすと、さらにナンバー2が「そのための人材はいっぱいおります」と応じる。この人材が、要するに不良債権者の若者だというのである。で、最初の「限定ジャンケン」というゲームに負けた若者やおっさんたちが、地下の作業場に送られる。地下王国を造るのに、いまどき人海戦術である。地下鉄を通すのにも、トンネルを掘るのにも、いまどきあんなことはしない。じゃあ『蟹工船』へのオブジェかというふうに良心的に観もするが、時空は中国でも北朝鮮でも近未来でもナイ、現在の日本である。すでに、このあたりで、脚本家(大森美香)のホンが破綻しているというか、準備稿レベルのものでしかナイことがワカルのだが、いまどきシナリオスクールに通っている素人でも、こんなホンは書かないだろうというホンに、観客は最後までつきあわされる羽目になる。おそらく大森は金融に関してはおそろしく無知なのに勉強すらしないで、このホンを書いている。原作はマンガだが、マンガだからゆるされる世界はあっても、映画のリアルティはそれをゆるさない。ここに二つ目の問題がある。さらに、「鉄塔渡り」というゲームがある。これは非合法の殺人である。クライマックスの「Eカード」というゲームは、主人公とナンバー2との一対一のカードゲームなのだが、ナンバー2の仕掛けるイカサマがあほらしい。あんなのは、カードのほうに仕込みをすればすむことなのだ。ここでは脚本家の博打に対する無知が馬脚を現す。もうちょっと勉強せえよ、しかし。ともかく、主人公の(舞台でなら通用するだろう)大熱演の絶叫には閉口する。もちっと「力を抜け」とでもいってやりたくなる。あるいは、二人のカード合戦の演出に、そういう素人が観てもワカルような心理戦をやたらと大袈裟に説明するなといいたくなるが、書き出したらキリがナイのでもうやめる。なんでこんなクズのような映画(作品の中でも人間のクズというせりふが何度も出てくるが、これは映画のクズだ)が出来上がってしまうのかについては、ひとこといっておく。それはおそらく、監督にホンを書く力がナイからだ。テレビの分業は、脚本家と演出家を何の疑問もなく引き裂いてしまった。ホンが書けないというのは、映画監督にとって致命的なのではないか。かつての映画監督は、みな本書きから始めた。だから映画会社には監督部などはなく、監督は文芸部に属したのである。

明日から中津川へ(何の用事でかワカランのだけど)行きます。四、五日開店休業です。

2009年9月16日 (水)

巷の売文業からひとこと・補

結論からいえば、コトバ(言語)というものは、それ自体では論ずるべき対象ではナイのだ。たとえば、「心は泣いている」というコトバがあるとする。つまり、涙こそみせないが、心では泣いているということだ。こういうことは生きていれば少なからずあるのだ。現に私自身も、まるでカミュの『ペスト』のように、現在知己五人が癌と闘病していて、その諸行無常に「心は泣いている」が、眼から水滴が落ちることはナイ。これを、目の前の他者に音声か文章で伝えたとする。しかし、私は涙を流してはいないので、それは、「表現」として識知されるだけで、「現実」の出来事としては認識されない。つまりコトバ(言語)は〔表現〕としてしか論議の対象にならないということだ。かつ、コトバ(言語)は発せられなければ、箴言も金言名句も立て看板の注意書きも、成立しない。発せられるコトバ(言語)としての〔せりふ〕を扱う劇作稼業としては、それを発する主体の存在を常に念頭に置くので、「心は泣いている」というコトバをドンファンが口説き文句に発しても、先述したように私が発しても「心は泣いている」は「心は泣いている」としか音声にならないし、文章にもならないが、そこに表出の違いがあるのはあきらかである。たとえば、前回の「傷を完治されることをお祈りします」を医師が患者にいうせりふだとしたらどうだろう。これを「傷が」にしたらどうだろう。敬意は相手に対してではなく傷に払われているだろうか。この辺りが、コトバ(言語)に対する町田さんとの考え方の違いである。この表出の違いを構造主義言語学では、主体なき言語てなふうに捉えるのだが、劇作を生業の私からしてみれば、舞台では、「誰」がそのせりふをいうかが重要なので、誰かは必ず存在するのだ。(もっとも、『ゴーシュの夜の夜』(拙作)では、第三の登場しない人物のせりふとして、あるせりふを挿入する実験をしたが、これは宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』自体がそういう構造をもっていたからこそ出来たワケ)「理を攻めて云ひ勝はあしきなり」(道元『正法眼蔵随聞記』)

巷の売文業からひとこと

中日(東京)新聞の水曜日朝刊に連載のコラム『ひもとく』(町田健)は、業種の関係でコトバには敏感なので(なにしろ、学問がナイもんだから、いろいろ間違った使い方をついやってしまうので)勉強のために毎度読んでいる。ところで、9月16日の「傷を完治されることをお祈りします」で「傷が」とはいえるが、「傷を」とはいえないについては、私の考え方とは違う。この場合の「を」は格助詞(助詞だと思っていたけど、用い方にそう違いはナイはずだ)だ。町田さんの説明では、「傷を治すのは医者なのだから〔傷を完治される〕といっても相手に対する敬意は伝わらない」となっている。ここはおかしなところで、傷を治すのは、医者でもあるが当人でもある視点が欠落している。もう少し深くいうと、主体(話し手)が誰(対象)に向ってコトバを表しているのかという洞察が欠落している。ここでは主体(話し手)は「〔あなたが〕傷を完治されることを・・・」の〔あなたが〕を省略していると考えれば、このコトバは通用する。主体(話し手)の聞き手は傷のある当人だからだ。そういう場合、たいてい〔あなたが〕は省略される。要するに「傷」とそれ以下の主体のコトバの関係が表現出来ていれば、「傷を完治されることを・・・」は間違いではナイ。町田さんのいうように「〔傷が完治される〕と言えば、相手ではなく傷に対して敬意をはらうというおかしなことになる」というのも錯誤だと思われる。この場合の「される」は傷に対する敬語ではナイ。でないと、たとえば木下藤吉郎が信長に対して「天下が平定されることを・・・」といった場合、天下に対して敬意を払っていることになる。この場合も〔あなた(信長)によって〕という省略がある。したがって「あなたによって・・される」で、この場合の「される」は「為(す)る」の敬語である。元にもどると、「〔あなたが〕傷を完治〔される(なされる)〕ことをお祈りします」と代入出来る。この方程式は通用する。

2009年9月15日 (火)

要不要

まず、なにはともあれ、イチローの9年連続200安打大リーガー新記録には、頭(こうべ)を垂れておくべきだろう。とはいえ、今朝の中日(東京)新聞朝刊の一面コラムにあったように、目を守るために映画を観ることもしないという(たぶん読書とか、他に野球以外に目に負担のかかることはすべて禁ずるといったふうなんだろうなあ)、常人ではナイ自己管理は、癌にならないためには有機無農薬野菜だけを食べ、肉類、塩分を摂らない、みたいで、その偉業もいささか人間離れし過ぎている感が無きにしも非ず、といったところか。しかしながら、オリンピックにせよ、何にせよ、偉業を達したスポーツマンは、誰も彼も常人ではナイのだからアタリマエのことでもあるのだろう。おそらくは、剣豪といわれた時代の侍も、人間を超えた修業の末、鍛練の末に腕を研いたに違いない。釈迦牟尼は、苦行の末、苦行には意味はナイと考えを正して、菩提樹の下に座すのだが、スポーツの世界、武術の世界はそうはいかないようだ。願うことは、引退というときがきて後、打撃コーチになることがあっても、マイクの前で高見の見物と解説とやらをする、かつての強者だけにはなってもらいたくないものだ。

2009年9月13日 (日)

『戦場のメロディ』というドラマ

フジ系列、9月12日、21時~23時10分。末谷真澄・脚本、田島大輔・大川卓也、成田一樹(他、プロデュース)・・・やれば出来るじゃないかという、ひじょうに直截な感想を持った。この手のドキュメント・ドラマは、どうしてもドラマ部分が嘘っぽくなるのだが、私のようなへそ曲がりの者(多少は、同業種だからしょうがナイのだが)が観て、出演者すべてにかなり手厚い演出が行き届いていたことは、クライマックスの渡辺はま子(薬師丸ひろ子)が収容所で歌うシーンに強く現れていたと思う。テーマは、一曲の歌である。このドラマで、太平洋戦争そのものの責任制(その所在)を問う(渡辺はま子自身は、戦中慰問の自責から活動を始めている)のは無理なことで、もし、それを引き込めば、逆に主題もろとも散開してしまうことになったに違いない。『あゝモンテンルパの夜は更けて』と、その歌による庶民大衆の運動が、当時の日本の政治にどの程度影響を与えたのかは、枝葉末枝としてバッサリやっているが、また、政治的接触も含めて殆どその関連を描いていないのは、たぶん、戦争に一家言ある評者には、いつもの感動戦争実話として、物足りないところだろうが、一曲の歌の運命は、たしかに見事に描かれていたのだ。よって、演劇屋の私などは歌にはかなわねえな、と嫉妬するのだが、それを、ドラマとして演じられたところに、演技も芝居もすてたもんじゃねえな、と、またほっとするのだ。余談だけど、薬師丸ひろ子さんは、だいぶんにボイストレーニングしたなあ。

2009年9月12日 (土)

映画情報『PUSH 光と闇の能力者』

ポール・マクギガン監督、デヴィット・ポーラ脚本。『Xメン』やらなんやらかんやら、超能力者の活劇はてんこ盛りにあるので、まあ、ダコタ・ファニングが観られるだけでもいいかという気分でいったのだが、いやあ、これはよく出来てますわ。超能力者の対決には違いないのだけれど、全身炎とか、全部凍らすとか、目からレーザーとか、金属の爪とか(新作『ウルヴァリン』に関しては、スピンオフながら本編よりはるかにオモシロイ)そういう派手な超能力者は一切出て来ない。とはいえ、超能力者の対決には違いないのだが、いうなれば「超能力者の頭脳戦」である。スパイ映画を超能力者がやってるとイメージすればいい。ひらたくいえば、超能力者にも、阿呆と利口がいるというお話。バカとハサミは使いようというが、超能力も使いよう。前半はややもたつくが、中盤からスピードアップ。後半は、超能力で超能力の裏をかく、戦略的な闘いになる。この辺りの脚本のプロットが素晴らしい。上質のミステリを観るがごとし。へーえ、こういうふうに超能力者映画も創れるんだと感心しました。さすがハリウッド、いつまでも『ファンタスティック4』みたいな低質マンガをやってはいない。それにしても、ダコタ・ファニングはいいね。『ER』のチェン役、エミリー・ウーもまた懐かしい。

2009年9月11日 (金)

世間 皮算用

一昨日の夜である。奥さまは劇団の稽古。晩飯に食欲なく、行きつけの店でハートランドが飲みたくなって、出かける。7時半。私以外、客はナシ。ハートランドも売り切れということで、ふつうの生ビール。この店はドリンクは焼酎からワインまでいろいろあるが、(ハートランドビールはこの店以外、近隣には置いていない)食べ物は、適当にマスターがつくって出してくれる。偏食のものと、肉系か野菜系かそれと量の多少をいうだけで、おまかせになる。ともかくマスターと私と二人きり。私はいつもの隅の老人(ミステリ愛好家にしかワカランだろうけど、まあ、カウンターの隅っこ)。以下はマスターから聞いた話題である。・・・子供のあるサラリーマンの一カ月の小遣いが4万からいまでは3万になったからね。禁煙が増えているのは、健康のためだけじゃないね。一日千円だから、ふつうの昼飯は食えないね。弁当の安売り合戦をやってるね。250円てところもある。うちも最初は弁当屋だったからワカルんだけど、250円でも仕入れさへうまくやれば出来るんだ。サラリーマンの負担は子供だね。塾が大きいな。今度の選挙で民主党が勝ったのは、その辺を具体的に公約したからだな。いまは、たいてい昼抜きが多いな。コンビニでおにぎり一個買って、オフィスで食ってる。そのてん、ネット商売の楽天はスゴイよ。社食は24時間稼働していて、なにしろ、従業員も24時間会社にいるワケだから、いつでも飯や酒の用意が出来てる。これは従業員は無料。和洋中華、イタ飯から寿司まで何でも揃ってる。小腹がすいてサンドイッチから、宴会パーティーまで出来る。・・・昨今は野菜が高いなあ。(これは私も毎日マーケットに通っているのでワカル)新聞では値下がりしたとあるけど、してないね。ありゃあ、生産農家ではけっう収穫があるんだけど、農協がハネていくんだ。農協ってのは農協を維持していくためにあるようなもんだから。かつては卸のいい店があったんだけど、いまは仕入れが難しいから、飲食店はつぶれてるなあ。宮本むなしとかも、関西から進出だったけど、松屋と相討ちしてどっちもつぶれてるな。・・・東京の八重洲やら新宿の駅口にリサイクルの週刊誌売りやってるでしょ。あれ、年収幾らかワカル。一億円だよ。なにしろ、元手は殆どタダだもん。ほんとにリサイクルってのをしてるのは、ああいうところくらいじゃないかな。(私もよく新宿で目にするが、おそらくテキヤの領分である。幹部格より上あたりがやっていれば、ショバ代は要らない。テキヤの場合はニワ代というが。素人さんは参入出来ない)・・・コンビニの弁当の時間切れを再販売するかどうか、問題になったけど、あれもね、ホームレスが直接行って貰えるってワケじゃナイんだ。そういう役割のひとがいて、時間切れを待ってる。でどっと時間切れを貰って、それを配るんじゃないよ。それをホームレスに売るの。別にぼったくってるワケじゃないんだけどね。ホームレス社会もちゃんとシステムがあるんだな。・・・9時、客はまだ私ひとり。ビールとグラスワイン、刺身を中心のつまみ一盛り、これで1500円。・・・今日は仕入れが出来ない日だったから、あまりいいものが出せなくて悪いね。とマスターのひとこと。帰ってから、茶漬けを一杯。

2009年9月10日 (木)

妥協かファシズムか

民社国連立合意で、とはいえ不協和音があって、それぞれの党が満足しているワケではナイという、これはたぶん、いわゆる「水をさす」マスコミの評論、評価、解説が出ているが、そんなものは、右傾論者や自民落人を「そらみたことか」と喜ばす以外のどんな価値もありはしない。全党一致など一種のファシズムではないか。政治は妥協なのだということを政治家ならずとも、知っておくべきだと思う。何度も断っておくが、私は民主党を支持しているワケではなナイ。沖縄の問題も社民党の注文は真っ当だが、(民主岡田幹事長もそう述べたらしいが)対案の出せない社民というのはダメだと思う。そんなものは子供のダダこねと同じだからだ。いっそ非公式にでも、福島社民党首が、オバマとまではいわないが、クリントンあたりと女性政治家対決でもやりに渡米すればいいのだ。社民はどうして沖縄にこだわりながら、そこまでやる根性がナイのだ。基本的に、銃器を所有する権利が個人に認められている国家と、憲法9条を持つ国家が、どうやってワタリをつけるのか、これは連立政権がどうのこうのというレベルの問題とは違うのではないか。私は日本国憲法は正しいと認識しているし、自民党の敗退と頽廃は、単純に国民を舐めてかかったからだと思っている。要するに「驕る平家は久しからず」であり、「権力は腐敗する」である。国民を舐めず、アメリカに舐められず、ということだ。弁護がましくいうが、鳩山代表の「友愛」は小馬鹿にされたり揶揄されたりしているが、日本国憲法の根本理念(前文に書かれてある)の理想は、それに近いのではないだろうか。お笑い番組とニュースバラエティしか創れないテレビマスコミに、もっともらしいことをいう資格など、いまのところ、まったくナイ。小泉政策の構造改革とは、けっきょく富国強兵と大差なかったと、そういう反省を促す意味だけでも、308議席の責任は重いはずだ。小泉チルドレンの次は小沢ガールズだとはしゃいでいるマスコミは、どのみち、やがてファシズムの片棒をかつぐことになるのではないかと、そんな思いが杞憂であることを願うのみだ。

2009年9月 9日 (水)

幻想としての家族

今日は仕事(小説)より先にこっちから書いている。まだ、目は大丈夫だが、それでも、新聞2紙を読んで、少々パソコンでネット注文をしたせいで、すでに、ミオピンを二度処方している。ネット注文したのは、ブルーベリーアイという、いわゆるアントシアニンを主成分としたサプリメントだ。第一次大戦の際、空軍兵士が飛行前に食したといわれるベリーである。効果のほどはワカラナイ。とりあえず、二月分、注文した。最近、癌の代替治療で、食餌療法がいわれ始めている。10月には、その手の書籍がそれを実践している医師の著作で文春から出版される予定だそうだ。代替治療は多く語られているが、医学的なものは保険が効かないので高価だし、アトは民間療法程度で、他、さまざまな方法は、米原万里さんが、自身の癌との闘病のときに試されていて、いずれもイイカゲンであったことが彼女の本に書かれている。ともかく食餌療法は(いくつか疑問はあるのだが)安価なのがいい。さて、ここんところ、毎晩夫婦でDVDを観ているのだが、どうもハズレが多く、一昨日の『パコの・・・』とかは、30分で二人ともgive upした。で、ゆんべは、頼むぞとばかりに『大阪ハムレット』である。これは満点。森下裕美の原作は読んでいたが、短編のマンガをあれだけの脚本に書き上げた手腕は並大抵ではナイ。さらに光石富士郎(このひとは全然知らない)監督の演出がいい。というか演技指導が上手いのだと思う。松坂慶子や岸部一徳は出来てアタリマエなのだが、他の出演者に対する演出の行き届いた、バランスのとり方がいいのだ。ハムレットも使われるが、話の内容はどちらかといえば、チェーホフふうだろう。難しくいってしまえば、これからの家族の有り様を描いているといったところか。何気ないプロットであるが、母親の作ったカレーライスが辛すぎて食えず、兄弟たちはカップラーメンをそれなりに食べる、というところなど、食の崩壊、母親の味という幻想などを論じた『〔現代家族〕の誕生 幻想系家族論』(岩村暢子・勁草書房)に通じていくのかも知れない。

2009年9月 8日 (火)

視力

ここんところ、この欄が開店休業のようになっているのは、視力の問題で、毛様体の老化にともなうピント調節が2時間もたなくなっているせいで、眼科から調節機能改善点眼剤(ミオピン)なるものを処方されているのだが、ネットで調べたところでは、市販の目薬と効果は変わらないとあって、たいてい午前中にパソコンに向かう仕事をやっつける私にとってみれば、1時間に少々の休憩をいれても、次第に手元のキーボードの字も、画面の字もぼやけてくるというありさまで、ついつい、この欄がすっ飛ばされるということになるからだ。映画なども、洋画の字幕ものは、2時間以内が限度で、演劇の舞台もそれくらいで、役者の顔がかなり観づらくなってくる。1~2時間ばかりの休憩を入れると、元通りにはなるのだが、まだ書ける、書きたいという気力のあるところで、字がみえなくなってくることは、ひじょうに疎ましい、鬱陶しいことなのだ。だからといって休憩時間中に読書が出来るはずがなく、焦燥のままに、寝ころんでいるしかナイという体たらくである。メガネも二度ほど変えたが、まったく解決策になっていない。この文章を書いている現時点でも、すでにかなり読みづらい作業を強いられているのだが、どういう手をうつべきか、考慮中である。

2009年9月 4日 (金)

車はガソリンで走るのです

表題のようなCMがむかしあったような気がする。ふとそれを思い出した。というのも、民主党のマニフェストの目玉である高速道路の無料化で、市民団体『気候ネットワーク』から「車の利用を促進する一方で、鉄道やバスなど温暖化を防ぐ公共交通機関を衰退させる」という批判が出ているという記事を中日新聞9月4日朝刊で読んだからだ。私はこの市民団体がどういう団体かは知らない。が、この批判に対しては少し首をひねるところがある。まず、高速道路を無料化にしたところで、車両の国内総数に影響を与えるとは思えない。車両の国内販売数は1990年の7777000台をピークに減少しており、2008年では5082000台まで落ち込んでいる。(保有台数でみると、2006年の74252000台がピークで、2008年は73992000台)次に車のガス排出というのは「止まる・発進」のときが最も多い。その「止まる・発進」の極めて少ない高速道路で、ガス排出量が増えるとは思えない。(この「止まる・発進」を解消するためにETCが導入され、利用率は2009年2月で77%になっている)さらに、いままで東京-名古屋を新幹線利用していた人々(主には出張通勤だ)が、これを車両に変更するなどということも考えにくい。問題は高速道路である。つまり高速道路を利用する車両が増加しても、普通道路を行くよりはガス排出量は減ると算出したほうが科学的である。そういうことを懸念する前に、エコ減税とやらで、やたらとテレビCMの増えた車両メーカーの、いまが買い時、で、じゃあ、セカンド・カーでも買おうかしらと、消費者がこれを購入、普通道路を走る車のガス排出量が、如何にハイブリッド(そうでないほうが多いようだけど)とはいえ、増加するのではないかという心配を、この団体はしたほうがいいんじゃないのか。車はエコで走るのではナイのだ。

2009年9月 3日 (木)

映画情報『大洗にも星はふるなり』

監督(脚本)は『33分探偵』の福田雄一。103分。内容は、かつての小劇場演劇の映像化。「かつての」と記したのは、この手の小劇場演劇映画は、三谷幸喜によって終わっているのではないかと思うゆえ。(三谷自身も終わっているように思えるけど)良くできたホンなのだが、小劇場演劇をそのまま映画にする場合、「よく出来たホン」というのはよりウソっぽさが強調されていくという矛盾を孕む。その点、三谷の場合は狡知に長けていて、映画まがいの映画におしなべて作品を仕立てているところが、早めに小劇場演劇と縁を切った一日の長というべきか。『33分探偵』はリアリズムを壊して、真っ向から大嘘で勝負するところに面白さが爆発していたのだが、こっちは真っ向から小劇場演劇、やはり映画のリアリティと演劇のリアリティは違うのだなあと、実感させられました。そこそこ笑えるのだが、爆笑とはいかない。これがライブなら大爆笑だったろうに。ヒロインは伏せていたらしいけど、あまりそこんところでの宣伝効果はなかったみたい。すんませんね、私、戸田恵梨香は趣味でないんで。

2009年9月 1日 (火)

受益者負担

民主党への政権交代によって、もっとも腑に落ちないのは、高速道路の無料化に対する「受益者負担」という従来の方針が変わることに不満の輩がいることである。高速道路が無料化になれば、その分は国庫負担ということになるので、納税者負担ということになるのはアタリマエだ。ここでは、納税は数少ない国民の義務であることを確認しておいたほうがいい。税金をどう使うかに対しての権利は直接国民にはナイ。これは憲法に定められたことだ。高速道路はマイカーばかりが走っているワケではナイ。経済流通に必要な車両の割合も高いはずだ。とすると、卑近なことをいえば、マーケットで買い物をする私たちはこれ、即ち、受益者であったはずである。殆ど車両の通らない道路を造ってきた、道路族の自民党議員がお払い箱になるのは、これまたアタリマエで、この政策はなかなかいいと評価出来る。「私たちには何の得にもならないから」というのが庶民大衆の庶民大衆たる所以だが、では、子供の教育費の国庫負担も受益者負担にしたほうがいいのかというと、将来、何処の家の子が、ノーベル賞をとるやも知れぬではないか。その恩恵を考えれば受益者負担というコトバはもう廃語にしたほうがいい。

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