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2009年8月15日 (土)

ドラマツルギーのためのミスディレクション

「『アチャコ』の戯曲のエログロナンセンスに北村想が真意を公表しなかったので、そろそろ迷宮入りの噂が立ちはじめた暦のうえでは秋のこと」と、書いて、これが何のパロディ、もじりか気がつくひとが幾人いるだろうか。ヒントは本歌は頭が「聖アレキセイ寺院の」だ。かつて『ヴァイアス』の批評で、かの、まねきねこ(氏なのか女史かは知らねども)が「夢オチの一種かとも勘ぐられて面白し」と記したことがあったが、ありゃあ、それで正解なのである。ただ、刑事の夢オチにするには単純に過ぎるので、ミステリ(『ヴァイアス』はミステリです)の常法として、ミスディレクションを張りめぐらせると、小説ではナイ演劇においては、それがドラマツルギーの問題となってくるというワケなのだ。ところが、モノが演劇だけに、そのドラマツルギー自体が、みせるべきモノであって、いわば、マイナスを二乗してマイナスになるような「虚数」のごとき手法になる。虚数というのも英語でimaginary numberなら、「想数」でも良かったんじゃないのか、というのはさておき、で、そのラインで話を(というかネタバレを)してしまうのなら、『アチャコ』におけるミスディレクションこそは、エログロナンセンスであることはいうまでもナイ。ただ、このミスディレクションは、前述したごとくそのものがみせるべきものであって、見せ物小屋のオオイタチのごとく、たしかに、木戸銭を払って中に入ると大きな板に血がついたものが置いてあることに間違いはなく、ミスディレクション自体が観るべきものとして存在しているという、ドラマツルギーが用いられている。ポルノでもエロでもアダルトでも(むかしは官能とかいったけど)いいのだが、あの作品の情況(situation)を小劇場演劇と置き換えてみれば、オオイタチもあながち間違いではなく、そのまま、かつては披露宴での新郎新婦の経歴から抹消されなければならなかった「演劇」が、いまでは犬のごとく飼い馴らされているではないかという、作者七転八倒、苦心惨憺のironyであることはすぐにワカルという寸法だ。だいたい、現在においても、小劇場演劇が、CD付きアダルト本に勝利しているとはいい難いではナイか。書店の監視カメラが設置されたコーナーで、アダルト本をチェックしている客の背姿こそは、かつて小劇場演劇の観客の背姿と生き写しというのは、どういう浮世の巡り合わせなのか。芸術はよしとして、芸術に成り上がってはつまらぬものも、世の中にはあるんじゃないのか。敷居三寸跨いで、芸術の裏街道を疾走する維新派のような奇蹟もあるにはあるが、あの雨の琵琶湖の劇場で、来賓席だけぽっかりと空席だった様相は、そのまま、未だにその来歴の正統性を示す背理法のようで、かえって気持ちがよかったのは私だけではあるまい。いっておくが、芝居ってのはね坊ちゃんお嬢ちゃん、お上品なもんじゃないんだよ。エロだのグロにあたふたするくらいなら、夢にオオイタチが出てくるよ。

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