無料ブログはココログ

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月

2009年8月30日 (日)

あんたがたどこさ

昨日は「子供のためのシェイクスピア」(華のん企画)『マクベス』を観劇。マチネが終わってからお疲れのところ恐縮だったけど、脚本・演出の山崎清介さんに『エンタ目』のための取材を30分ほどやらせてもらう。掲載は9月17日中日朝刊。『マクベス』は黒澤明監督『蜘蛛の巣城』を観ていて、(舞台ではこれが初めて)ずいぶんと陰惨な暗い話だなあという記憶がある。30分丁度、メモも録音もナシ。ああいうのをやるのは本職の仕事だろうから、私はただ訊いて聞いているだけ。で、記憶に残ったことだけを書く。いわゆる竹中労方式。・・・午後は投票に行くつもり。選挙速報はお祭のようなものだから、わりと楽しみ。競り合っている大物の当落を観るのがオモシロそう。自民党もマニュフエストやら、宣伝やらで、なんとか巻き返しをというところなんだろうけど、この4年の失政は庶民大衆には堪えていると思う。とはいえ、民主党も一発屋で終わるなら意味がナイ。ただ、自民党が未だに「経済成長」という旧式の武器しかナイのに対して、民主党の「家計応援」というのは、新しいという気はする。ただ、その応援のやり方が大丈夫かいなと心許ないのはたしかなのだが。・・・夏の疲れがじんわりと心身に出てきていて、小説は、涼しくなるまでちょっと休筆。

2009年8月28日 (金)

タダでものは買えない

伊丹で、塾を二つ(ひとつはマスターコースという、いわゆるレベルが上がるコースで、そこでは長編戯曲を書く訓練がなされる。もうひとつはいつもの想流私塾)ポン抜き(一日抜いて)でやってきたのだが、ずっと体調がおもわしくナイのは、夏バテかと思っていたけど、どうやら、抗鬱剤を全面的に服用しなくなったためと気づき、大急ぎで、元にもどしてみたら、やっぱりそうで、三日ほどで体調はほぼもどる。やはり抗鬱剤(トレドミン・SNRI)は一日1錠あたりは必要かと思われる。それでも、二時間以上のレクチャーをやっつけるのだから、たいしたもんだと自画自賛するが、いったことの三行前にナニをいったか忘却するという、ニワトリ状態(ニワトリは三歩歩くと三歩前の記憶がなくなるそうな)で、やっぱり本調子ではなかった。・・・巷では選挙のことでマスコミなどはおおわらわ。ちょっとワカランのは、(別に民主党支持ではナイのだけれど)民主党のマニフェストの財源が不明瞭で、国民に税金の負担がかかると自民党が攻撃しているところ。大衆ってのは、虫がいいもんだから、てめえのふところは痛めずに、生活が良くなるといい、というふうに考えるのはアタリマエなんだけども、こちとらは、税金を払っているのは、生活が良くなるためであるのだから、タダでは何も買えないよと、常識的に覚悟はしておいてもいい。損をするひと得をするひとが出て、格差が生まれるとか、そりゃあ、渡世の常道でしょう。どっかで得したのなら、そのぶん、損したひとに「すいませんね」と思うだけでもいいのである。ともかく私たちの税金の48%が公務員の生活費にまわってるんだから、これを45%まで抑えるだけでもけっこうな財源にはなるんじゃないかな。

2009年8月24日 (月)

巷の莫迦からのふたことめ

一昨日の(22日付け)日垣隆さんへの苦言は、単にショービズと小劇場演劇は違うといえば良かったんじゃないの、と、あれを読んだひとにいわれたり、日垣さんというひとは(このひとは日垣隆は読んだことがナイ)小劇場演劇のことを単に「小さな劇団」としてしか知らないんじゃないのといわれたり、まあ、あったんだが、たしかにそのとおりだとは思うが、そういうことでもナイんじゃないのかな。というのも、昨今の「小さな劇団」の演劇は、観客のためにその表現があるように、観客が思い込んでいるフシがある、ということに、あちきとしてはかなり問題意識を感じているのだ。そのあたりと、さらにほんとに劇団四季が日本のショービズの先鋒なのかという疑問も併せ持って書いたので、ちょっとだだくさい論旨になっちゃったなあとは思ってる。「プロではない」発言にしても、んじゃあ、なにかね、かの自由律の歌人、種田山頭火は食えなかったけど、アマかね、とでも書いておけば良かったかも知れないし、画家のゴッホは生前に一枚も作品は売れなかったけど、あれもアマかね、と書いておくのも手段だったろうが、それじゃあ、論旨文脈が日垣さんと同じ調子になっちゃうもんで、やめただけである。ついでだから、もう一つの疑問も呈しておくが、第6章「読者サービスの過剰」で「私のやる喧嘩には、以下のごとき明確な作法がある」として、いくつかの作法に「人格を否定せず、むしろ相手の面子を重んじる」「無理難題をいわない」とあるのだが、第8章の数学者との対談では相手のいうことに矛盾が多いので、「私はだんだん意地悪になってくる」とはしながらも、そのちょっとアホであるらしい数学者に突きつけているのは「いいがかり」「イチャモン」としか、受け取れない。これって矛盾じゃないのか。もっとも、その矛盾が、パラ(逆理)であるのなら、論議になるのだろうけど、日垣さんが記しているように、その数学者(数学者ってのは、世間が思い込んでいるほど頭がいい、ということはナイのがたいていなのだが)との全内容が活字になるのを巷の莫迦も所望する。・・・さて、今日から三日ばかり、出稼ぎで、ここは留守になるので、よろしく。

2009年8月22日 (土)

巷の莫迦からひとこと

日垣隆さんの著作はけっこう読んでいる。いろいろと参考、資料になることが多いし、目から鱗が落ちるということも多々ある。自ら売文業と名乗り(けれども、奥付の肩書には作家・ジャーナリストと記されているのは謎だが)ユーモア・サービス精神に富む、健筆家である。とはいえ、故人米原万里さんに「詰めが甘い」と一喝されたように、たしかに、そのような傾向もなきにしもあらずで、いってみれば呉智英センセイから思想と学問を引き算して、知略と教養で穴埋めしたようなスタイルである。で、本論。新刊『怒りは正しく晴らすと疲れるけれど』(WAC)の第9章「得意なことで食う」の巻は、的外れ、見当違い、筆すべり、無知、であることは巷の演劇関連を得意とする売文業者としては、指摘しておかねばならない。心苦しいのだけれど仕方ない。あれを何も知らぬ読者、日垣ファンがまともに受け取ったら日垣隆さん自身の恥になる。・・・本書は日記である。(日付は記されていない)問題の本文を記すと「日本には首都圏だけで3500以上もの劇団があると言われている」・・・確かに3000以上はある(3年ほど前の個人的な資料によるとだが)。ところで、日垣さんは別の自著で「言われている」というような曖昧な表現は使ってはイケナイとされていたが、ご自分で、それやっちゃって、やっぱりこの辺からもうこの日記はあやしいのだ。文章はこうつづく「たいていが「それだけ」では食えず、アルバイトをしながら劇団員を続けている。チケットは有料なのに、それではプロとは言いがたい」ここで「それだけ」というのは劇団の公演収入(ギャラ)のことであるのは明白だ。ただし、「プロと言いがたい」かどうかは「いいがたい」。私の表現論におけるプロ・アマ論とはまったく違うからである。これはやってると長くなるので飛ばす。問題はそのアトだ。・・・「ブロードウェイの方法をいち早く取り入れたのは宝塚や劇団四季である。「食えない」劇団との違いは複製(代替)と量産だろう」「日本の劇団の大半は、同じ面子で六カ月もかけて練習し、高い場所代を払ってたった一週間の公演、というようなスケジュールを平気で組んでしまう。そんなことをしていて舞台で食えるようになるわけがない」・・・日垣さんとしたことが、たぶん、ここはサボって、調査も何もナシにやっつけているのである。ここが「詰めが甘い」ところなのかも知れない。私は演劇関係の同業者であるから、同業者のことは悪くいいたくはナイのだが、風聞ということにして、劇団四季の劇団員が食えているという事実は知らなかった。食えるだけの賃金を劇団員に支払っているとも知らなかった。演者は殆どの者が公演ごとの契約で、食えるだけの賃金はほんの一部の者しか手に出来ないものだと思っていた。親方の一存で、即日解雇の者が多くいるように聞き及んでいた。親方は政治屋と結託して、トップダウンで都会の一等地に劇場を建て興行する。(私が劇団をやっていたとき、広場で野外演劇の申請をしたことがあるが、「あそこは広場ではなく歩道だからダメ」と一蹴されたことがある。その半年後には、四季の名古屋ミュージカル劇場がその歩道に建っていたのである)もちろん、懇意にしている議員の鶴の一声での決定である。それが政治というものなんだろう。複製(代替)と量産においては、本場に対するロイヤルティ(著作権使用料)を払い終える数年間は儲けが出ないので、ともかく、あちこちでロングランをやらねばならず、複製、量産といっても、一軍は大都市をまわっているが、地方都市は二軍が巡回しているのである。ここらへんは劇団四季は確かにブロードウェイから学んでいるともいえる。日本で公演するブロードウェイ・ミュージカルは、実はあちらでは三軍くらいの面子なのだ。が、四季のトップよりは、やはり上手いのである。さて、宝塚になると、宝塚くらいは、日垣氏自身が、自慢の調査力で実際にその興行の内情を調べてごらんになるといい。そういう仕掛けだったのか、ということが出てくるはずだ。・・・食える、食えない、ということについての章であったので、巷の莫迦である私も、その点に絞ってひとこといってみた。ここで、私自身が「巷の莫迦」と称しているのには、ダブルミーニングであることは最後に知らしめておきたい。莫迦を承知の渡世というのも日垣さんより古い人間の私には、敷居を跨げば、あるのだから、しょうがナイ。

2009年8月21日 (金)

映画情報『ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~』

根岸吉太郎監督・田中陽造脚本、原作はタイトルどおり太宰治の『ヴィヨンの妻』(その他の短編)だから、つまり、この映画の成否は小説のあのラストシーンの妻のせりふをどのようにいわせるかにかかっている。太宰を知らない(読んでいない)観客は別にして(試写室で隣の座った女性二人の片方はそうだったし、もう片方は一作読んだとか語り合ってましたから)興味はそこに集約される。1時間54分の上映時間のうち、1時間45分近くは凡庸なのだが、田中陽造のシナリオから血が流れるのはそこからである。放蕩夫(大谷・演じるのは浅野忠信)の妻(佐知・演じるのは松たか子)が終戦直後のパンパンからルージュを買い求める。ここから一気に痛烈な逆転の本塁打が飛び出す。無垢な妻に隠れていた女が現れる。(でも、たぶん、予定通りなんだよなあ)もちろん、それなりの布石は打ってある。大谷が妻のことをひとこと語った前半のせりふが、ここで効いてきてしびれるという寸法になっている。そこで、ああ、してやられたと思うのだ。1時間45分を凡俗に感じるのは、映画が太宰のことを描いているのか、太宰の作品を描いているのか、混乱してしまうからだ。それなら太宰の小説だって、そうじゃないかと、通俗的太宰ファンなら、いうところだが、『ヴィヨンの妻』は、夫の放蕩について描いた小説ではない。タイトルどおり、その妻を描いた作品である。妻、佐知が何事もなかったように、ルージュを地面に置く。このシーンで、たしかにさりげなくタンポポが映り込んでいる。魔性という妻の隠した顔に、唯一気づいていたのは、夫だけであった、ということをワカルようにして、かくして、かの名せりふは最後に吐かれるのだが、さらに田中陽造シナリオはここで塁をうめる。その直前に放蕩夫に桜桃を食べさせるのだ。「子供に食べさせなさいと、居酒屋にもらった桜桃を、父親の私が食べている」と、さらに自責のせりふをいわせる。ところが妻はそれを叱責しない。自らもひとつ食べて「甘い」と微笑む。このプロットは田中陽造でしか書けないだろう。そして、あのせりふである。思わず、涙腺がゆるむ。私なんか引っくり返っても、こんなホンは書けない。

2009年8月20日 (木)

バトル

『GIジョー』を劇場でひとり観る。ふんだんに銭を使ったSFバトルアクション。話は三流なのだが、そりゃあまあ、この映画のみせたいところではナイだろう。肝腎のバトルアクションの撮り方が下手で、観ていてイライラする。ほんとうに下手。観客はここを観たいんだろ、と憤慨はなはだし。木曜の夜の回だからか、席はガラガラ。映画のバトルアクションをこき下ろしたんだからというワケではナイが、横浜未来人シアターの私の作品『モダン太陽傳』にも苦言(というより自戒なんだ、劇団の諸君はあんまり、しょげないように)を呈した。中日(東京)新聞、『エンタ目』8月20日朝刊。初日祝いの飲み会にも出席しているのだが、私は作品の感想は、酒席では避けるようにしている。次の日すぐなおるものならいうが、そうでもナイ部分だったからだ。問題は、剣戟(チャンバラ)シーンにある。私たちの世代は、チャンバラ映画のチャンバラシーンには、高揚したものだ。ところが、本作ではその高揚感がナイ。これを問題に考えた結果を『エンタ目』に書いた。曰く、generation gapというもの。チャンバラは斬り合いで、斬り合いというのは勝負で、勝負というのは命のやりとりなのだから、そうみえなくてはいけない。舞台におけるこの希薄さというのは、戯曲への書き込みの不足であることは、観ていて充分納得出来た。もっと若い人に向けた表現があったはずだと悔やんでいる。こっちは自分の視線の高さにいるものだから、そういうところに気づかなかった。多分に、昨今のバトル剣戟に毒されていたのは、私のほうであった。反省、自省、自己批判。

2009年8月18日 (火)

イギリスの陰影

新作DVD『奇術師フーディーニ~妖しき幻想』は、めずらしく当たりで(イギリス映画というのはハズレが少ないんだけど)監督のジリアン・アームストロングも初めてだし、単純に、フーディーニはむかしから興味のある存在で、彼を『メメント』のガイ・ピアース、対しての霊能力者(これは最初からインチキであることがワカッテいる)をキャサリン・ゼタ=ジョーンズが演じるということだけで借りてきたのだが、予想外にこれ、☆五つ。子役(キャサリンの娘役)のシアーシャ・ローナンが抜群なのである。この娘の霊能力については、奥さまと意見が分かれたところだが、どちらともとれるせりふなので、ちょっと判別は難しい。しかし、イギリス映画というのはアメリカ映画とちがって、色調というか、トーンがはっきり違うのは何故なんだろう、という私のかねてからの疑問に、イギリス映画は全体に明度が暗いのではないか、その理由はイギリスの天候にあるのではないか、明度の感覚がアメリカ人とは違うのではないかという、奥さまの論説に、ああ、なるほどと納得。フィルム時代には、アメリカ映画はたしか高感度のフィルムを使っていたから、日本映画より明るいが、ややざらつきのある感触であった。いまはデジタルが殆どだと思うので、あまり変わらないのではないかな。で、この映画、原作があるのかと思って調べたら、オリジナル脚本で、トニー・グリゾニー、ブライアンウォードとなっている。お見事な96分の無駄のない佳品。フーディーニをモチーフに、こういう話が創れるのか、とちょっと唸る。

2009年8月17日 (月)

隔靴掻痒

ドキュメンタリー映画『マン オン ワイヤー』が何故つまらないのか、幾つか気がついたことをあげる前に、意図的なのか偶然なのか、綱渡りをするためにフィリップ・プティが選んだビルが、9・11テロの標的となって、いまはなき世界貿易センタービルだということを、ドキュメンタリーの中に一切触れなかったのが、逆にこの映画の凄さとなった、ように思う。この凄さが何処からくるのかは、映画のラストシーン近くにフィリップが語る、綱渡りと人生についての箴言に呼応しているからに違いない。そこに、日本人以上に、アメリカ人は運命の不思議、あるいは、クリスチャン国家らしく、神の深謀遠慮を感じ取ったはずである。同様に、この映画が、綱渡りの成功映画として創られているのではなく、それが成功したがために破綻した愛や友情をさりげなく(恋人、友人、共犯者たちに、ずいぶんと謎めいて)語らせていることは、秀逸なんじゃないかと、素人の私は思う。そういう点からすると、この映画は、モノトーンの多さに比例するくらい陰影の強い、陰鬱な映画なのだ。     それとは逆に、ドキュメンタリーとしてつまらないのは、創り方が下手なだけで、綱渡りが成功しているというのは、観客すべてが知っていることなのだから、その成否をクライマックスにもってくるのは順序がマズい。綱渡りのシーンは、のっけに出してしまわないといけない。それから、綱渡りに至るまでの戦略会議と当日の大作戦をカットバックさせるべきだ。と同時に致命的な欠点は45分にも及ぶ綱渡りが動画ではなく、静止画像だけであるというところだ。それを補う手法は編集技術においてあるのだから、その技巧を工夫すべきであった。それと、再現フィルムはなくても(ないほうが)いい。再現フィルムのあるドキュメンタリーは、降霊術が手品だと予めいってるのと同じだからだ。ついでながら記しておけば、ビルからビルへの綱渡りは、ヘンリー松岡という日本の曲芸師が、昭和の始め、ニューヨークやシカゴにおいて、四十数階(当時はまだエンパイアステートビルは建築中であった)の高層ビルから高層ビルへ、合法的にであるが、綱を渡して披露、当時のアメリカ人の度肝を抜いたらしい。ヘンリー松岡は、逆綱(斜めに張った綱を渡る)の達人でもあった。このあたりは『さすらう』(白水社・芸双書・2)に詳しい。  

2009年8月16日 (日)

朝のユリイカ

今朝方、起き掛けふいに、ああそうか、いま躁の領域に入ってるんだと了解。抗鬱剤を3錠から1錠にしていたその1錠も服用をやめる。そいで、ゆんべ、あんな長文のaggressiveな文章ここに書いたんだなあと、納得。あれから、やはりやや興奮して、鎮静のために寝床で読んだのが、自由律俳句の『カキフライが無いなら来なかった』(幻冬社・せきしろ×又吉直樹)なんだけど、これがオモシロイ。せきしろさん一句め・・「落ちた歯磨き粉ここで一番白い」・・又吉さん一句め・・「二日前の蜜柑の皮が縮んでいる」・・、ということで、すぐにマネをして一句・・「いつもワカラナイあなたの怒る理由」・・これは私に向けた奥さまのコトバをほぼそのまま。次のオリジナルの一句も奥さまにいわれたことをヒントにしているのだが・・「ロマンチストただし二流私の肩書」・・で、石川美南さんの『夜灯集』も届く。最初の一首だけ読む。・・「人間のふり難儀なり帰りきて睫毛一本一本はづす」・・、モノクロームの写真(橋目侑季)も素晴らしい。、そうそう、前述の『カキフライ・・・』の中の写真も私がよく撮るような風景写真でgoodよ。終りに一句・・「また流してみたい甲子園のような汗」・・

2009年8月15日 (土)

ドラマツルギーのためのミスディレクション

「『アチャコ』の戯曲のエログロナンセンスに北村想が真意を公表しなかったので、そろそろ迷宮入りの噂が立ちはじめた暦のうえでは秋のこと」と、書いて、これが何のパロディ、もじりか気がつくひとが幾人いるだろうか。ヒントは本歌は頭が「聖アレキセイ寺院の」だ。かつて『ヴァイアス』の批評で、かの、まねきねこ(氏なのか女史かは知らねども)が「夢オチの一種かとも勘ぐられて面白し」と記したことがあったが、ありゃあ、それで正解なのである。ただ、刑事の夢オチにするには単純に過ぎるので、ミステリ(『ヴァイアス』はミステリです)の常法として、ミスディレクションを張りめぐらせると、小説ではナイ演劇においては、それがドラマツルギーの問題となってくるというワケなのだ。ところが、モノが演劇だけに、そのドラマツルギー自体が、みせるべきモノであって、いわば、マイナスを二乗してマイナスになるような「虚数」のごとき手法になる。虚数というのも英語でimaginary numberなら、「想数」でも良かったんじゃないのか、というのはさておき、で、そのラインで話を(というかネタバレを)してしまうのなら、『アチャコ』におけるミスディレクションこそは、エログロナンセンスであることはいうまでもナイ。ただ、このミスディレクションは、前述したごとくそのものがみせるべきものであって、見せ物小屋のオオイタチのごとく、たしかに、木戸銭を払って中に入ると大きな板に血がついたものが置いてあることに間違いはなく、ミスディレクション自体が観るべきものとして存在しているという、ドラマツルギーが用いられている。ポルノでもエロでもアダルトでも(むかしは官能とかいったけど)いいのだが、あの作品の情況(situation)を小劇場演劇と置き換えてみれば、オオイタチもあながち間違いではなく、そのまま、かつては披露宴での新郎新婦の経歴から抹消されなければならなかった「演劇」が、いまでは犬のごとく飼い馴らされているではないかという、作者七転八倒、苦心惨憺のironyであることはすぐにワカルという寸法だ。だいたい、現在においても、小劇場演劇が、CD付きアダルト本に勝利しているとはいい難いではナイか。書店の監視カメラが設置されたコーナーで、アダルト本をチェックしている客の背姿こそは、かつて小劇場演劇の観客の背姿と生き写しというのは、どういう浮世の巡り合わせなのか。芸術はよしとして、芸術に成り上がってはつまらぬものも、世の中にはあるんじゃないのか。敷居三寸跨いで、芸術の裏街道を疾走する維新派のような奇蹟もあるにはあるが、あの雨の琵琶湖の劇場で、来賓席だけぽっかりと空席だった様相は、そのまま、未だにその来歴の正統性を示す背理法のようで、かえって気持ちがよかったのは私だけではあるまい。いっておくが、芝居ってのはね坊ちゃんお嬢ちゃん、お上品なもんじゃないんだよ。エロだのグロにあたふたするくらいなら、夢にオオイタチが出てくるよ。

2009年8月14日 (金)

新盆初盆せんこのけぶり

父親の初盆ということもあって、帰郷。奥さまの仕事の関係で、夕方の新幹線に乗り、前日に実家に。最寄りの駅からのタクシーで、車窓に、高校生の頃、通学路にあって、毎日帰宅時に立ち寄った小さな書店が開いているのを確認。いつも確認しているのだが、その夜は、当時、ひとりで書店をやっていた着物姿に白いエプロンのおばさんをみかけたので、ああ、まだ当時と同じ姿格好で、店をやってらっしゃる、と感慨無量になってきて、胸熱くなる。そういえば、高校の選択科目では美術をとっていたから、そのときに描いた、わりと大きな号の油絵、これが少女の裸像なのだが、そんなモデルはいないから、その書店で買った写真集(当時話題になったのだが、タイトルを忘却)を観て描いたもの、それを、その書店のおばさんが貰ってくれたんだと、記憶が胸を締めつけて、帰宅時にでも立ち寄ろうかと思ったが、思い出などというものは、必ず、現実の前に壊れてしまうから、それが怖くて素通り。「追憶はこわれやすい朝のようなものだから、虹のようにココロにしまっておくがいい」と、団塊の世代なら、ご存知の、故谷川雁センセをもじって、ただ、おばさんの変わらぬ後ろ姿をだけ観る。こんなプロットが、短編小説にでも書けたなら、チェーホフや太宰なみなんだけどなあ。意余りて力及ばず。しかし、私も文豪になったらしく、ポプラ文庫(ポプラ社)の新刊『文豪てのひら怪談』では、その太宰や彼の嫌った志賀直哉などとともに、掌編小説の中に私の作品も収められている。書店でみたら、買ってけよ。

2009年8月12日 (水)

複数のカテゴリー

最近、自作の戯曲公演を観るたびに(ほんとは殆ど観ないのだが)、新作でも旧作でも、どうもコトバのゆるみ(もちろん、役者の上手下手や演出はエポケーしておいて、つまり何の関係もナイとして)、せりふの立ち方、鋭さ、深さが鈍っているというふうで、(まあ、囲碁でいうところの緩着かな)、それが気になってしょうがナイので、それを引き締めるために、数冊、短歌(自由律の俳句を含む)の本などを注文した。コトバの鍛練には、短歌、徘徊、詩や翻訳がイチバンいいのだ。今朝も、豊崎由美くんお薦めの石川美南さんの『夜灯集』を捜しに、あっちこっちウェブ検索して、やっとこみつけたので、とりあえず購入。だいたい、これが私のおかしな性癖なのだが、もう、戯曲は書く機会がないだろうし、注文もナイだろうし、書く気もナイのだけれど、こういうことをやっちゃうのである。これは、経済的にも、週に一回ほど通帳記入をして、ああ、まだ残金があるな、余剰があるな、命まだ残余していいな、と安心してるかと思えば、平気で散在して、金の切れ目が命の切れ目だから、早いところ使ってしまわねば、と、もうこんな世間(うきよ)はうんざりだからな、と矛盾したバランス感覚で生きているのと同じである。・・・昨日は朝から新幹線のダイヤが無茶苦茶の中、東京へ楽塾観劇。2時開演で、東京下北沢には1時20分にちゃんと到着しているところが、私の時間的な本質直観というやつで、これはいままで間違ったことはナイ。そこで、ラーチャン食って、1時45分には、劇場に(ちゃんと差し入れ買って)到着しているところがスゴイ。平均年齢56歳の少年少女たちのお芝居。私はあんなにせりふおぼえられないし、決められた動きも出来ないから、せいぜい、デスクワークですわ。終わってから、サービスで、談話会を30分ほどやって、まあ、仕事はしたなと晩飯は抜きで帰名。新幹線はまだ遅れていた。風呂、缶ビール一缶、素麺を食って寝る。

2009年8月10日 (月)

世間(うきよ)を、離れる

昨日、マーケットに買い物に行って、さて、晩飯は水菜と油揚でも煮るかと、そいつを買ってと、で、何だかワカラナイけど茫然自失となって、マーケットに立ち竦んでしまった。いや竦んでいるというのは正確じゃナイな。こんなふうな世間(うきよ)に突如として嫌悪感をおぼえてしまって、買い物籠の水菜と油揚をじっと観ていた、というのが正しい。どれだけの時間、そこにいたのかといえば、ほんの数分なんだろうけど、とりあえず、晩飯を食ったアトで、書店に本を買いにでかけた。数学の本である。昼間みかけて買うか買うまいか、なにしろ高かったから、で、けっきょく買わずにおいたのだけど、雨ん中、わざわざ閉店間際の殆ど客のいない書店で、(当初は他の書店でその本は目にしたので)目当ての本を捜しまくって、やっと一冊残っているのを購入した。Newtonの別冊で、雑誌なんだけど、2415円もする。まあ、何でもいいんだ。数学の本でも読んで、世間(うきよ)を離れたかっただけのことなのだ。ヤング-アダルト小説の三部作、二部までがほぼ出来上がって、ゆんべは、ヒッチコックの『下宿人』のリメイクを観た。本編は観た記憶がナイ。なんでかな。たいていは観てるんだけどな。よく出来た話で、ラストシーンの怖さも見事なものであったけども、ヒッチコックの時代なら通用するだろうけど、現在に時間を移したがために、このリメイクは科学捜査という点で無理があるのが瑕である。「台風のニュース観ながらタバコ吸う今宵は星も出ぬそうな」

2009年8月 9日 (日)

わしゃ、かなわんよ

酒井法子逮捕、で、まあ逮捕状が出た時点で、サツのほうには当たりがあったんだろう。てなことを家人には話していたんだけど、本人出頭である。それはまあどうでもいい。しかしながら、マスコミの論調主流が「あの清純派元アイドルが何故」である。こういうのはタブロイド新聞がやればいいことで、彼女が清純だったのは、テレビドラマの役の上ででしょ。オカシイんじゃないの。な~んか、おで、もう情けないくらい肩を落とすわ。こういう論法なら、悪役をやってるひとは悪人ではないか。アホか。そこへきて、芸能業界はドラッグ汚染されているなんてことになる。そんなことないだろ。バレてしまった率が増えただけだろ。ドラッグなら世間一般でも蔓延している。困るのは、向精神薬を何だか麻薬と同類項に扱われることだ。危険視して、クスリをキチンと飲まない患者も出てくる。そこで妙な民間療法の高価な滋養食品が大手をふって登場するという寸法だ。それだけではナイ。最近はかくれ肥満が危険だとか、体脂肪や内臓脂肪がどうだとか、善玉に悪玉のコレステロールがどうだとか、それが単なるお茶一杯で抑制出来るワケがナイだろ。ちょっと冷静になればワカルことだ。このお茶さへ飲んでいれば、焼き肉はいくらでも大丈夫、なんてのは、エコポイントで車買ったから、排ガスは大丈夫だという、集団ヒステリーなんじゃないのか。私は反抗派ですから、ラーメンライス食って、早いとこ往生いたします。

2009年8月 8日 (土)

そうか、学会

杉田かおるの『杉田』がオモシロイ。(小学館)2005年の出版なので、彼女が結婚で幸せいっぱいのときに書かれた本である。もちろん、斎藤美奈子さんの『文芸誤報』からの書評を読んで購入。だいたい、斎藤さんと、豊崎由美さんと、かつては米原万里さんをおさえておけば、女性評論はアトはカスみたいなもんで(というか、党派的で)、どうでも良い。『杉田』は「出生の秘密から結婚生活まで」になっているが、それに触れられているのはごく僅かでしかない。では、何について書かれているかというと、彼女の〔信仰〕について書かれている。彼女は法華経(日蓮正宗)の信者である。で、創価学会のことや池田大作のことについても、さらには、その裏側、黒幕についても書かれているのであるから、斎藤さんの書評によると、この本は宣伝出来なかったろうということなのだが、そうだろうな、これだけ内幕を書かれたら創価学会もかなりの圧力をそこいら中にかけたろう。それもそれなりにというか、戦慄するくらいオモシロイのだが、私のカテゴリーにおいては、彼女の演技術の習得の話や、バラエティに出演するための戦略など、芸能人、というより演技者としての杉田かおるには極めて興味を引かれる。役者は、一度読んでみて損はナイ。まあ、学会員は手にしないだろうけども。しかし、日本共産党も創価学会もけっきょくは、組織としての堕落と腐敗という点では目くそ鼻くそなんだなあ。

2009年8月 6日 (木)

夏の死に

中日新聞、黒川光弘さんが逝去。肺ガン、享年70歳。もちっといってるかと思っていたが、うちの実父より10歳若く亡くなったワケである。通夜に参席、実父のときよりせつねえ思いがしたのは、どうしてだかね。服装は黒で決めていったが、(といってもフォーマルじゃないんだけど)肝心の数珠を忘れていっちゃった。しまったと思ったが、宗派がどうやら浄土真宗らしいので、一安心。浄土真宗の形式で焼香をする。(浄土宗とは違うんだよな)こういうことは、実父のときに勉強したので助かった。・・・若山富三郎さんの楽屋に連れていってもらったときのことを憶い出した。若富さんは、どこの馬の骨とも知れぬ若造(だった)私にも気を使ってくださって、付き人に「おい、コーヒーを出さんか」なんて叱りつけたりと、まあ、詳しいことは、今度、中日のエンタ目にでも書きますが、「仕出しを大事にしない映画監督は大嫌い」とおっしゃっていて、私はその頃は「仕出し」の意味すらワカラナカッタのでした。黒川さんとは長いつきあいで、稽古場の近所の小さいラーメン専門店に晩飯をご一緒したとき、ラーメンに、ゆで卵がまるっと一個入っていたのに大感激で、「ありがたいなあ、こういうラーメンは」と、ああ、世代の違いだなあ、を感じたのでした。こちとらは、黒川さんの観劇日には、観劇後の栄養ドリンク(1000円くらいの高価なやつ)を用意しておいたりしたのだけど、「いやあ、これがなによりです」と、飲用されてましたわ。・・・夏は人類にはキツイ季節なんだそうで、暑さに人間は弱いそうで、なんだか、よーさんひとが亡くなります。

2009年8月 4日 (火)

観客の幻像

梅雨明けとともに『アチャコ』は千秋楽を迎えた。な~んて書き出しだと、おっ、今回は文芸調かと思われるだろうが、まあ、終わったものは終わった。のべ半年の行脚であったが、東京公演の観客による感想ネット書き込みが功を奏して、観客数は、伸びていったようだ。口コミに勝る宣伝ナシとはむかしからいわれているが、いまはネットの書き込みがある。時代は変わったのである。と同時、月曜日(平日)も当日券が売れて、これは、観客というものが、その職業の多岐によって、けして土日に偏るものではナイということを示している。演劇関係者はもとより、土日が休めないっていうひとは多いのである。これなら、平日のマチネなんかも増やしたほうがいいように思う。で、四半世紀ぶりにアンケートとやらに目を通したが、四半世紀前とぜんぜん変わっていなかった。アンケート感想なんて、そんなもんだなあ。唐十郎さんが、「観客論をやるなら度胸論をやれ」と述べたのも遠いむかしだが、いまは、アンケートを読んでいるより前述したネットの書き込みを読んでいるほうがマシなのである。東京の書き込みには、「エロスはあったが、タナトスはあっただろうか」なんてのもあったらしいが、ちゃんとあったことは、ちゃんと観ていればワカルことなのだ。もちろん、あの、イライラするような舞台の時間に、「間がとりすぎで、間延びしている。もっとテキパキ」というのもあれば「ゆるゆるが、たまりませんでした」というのもあった。いまふうの(もう古いのかも知れないが)ゆるゆるだって算盤づくなのはいうまでもナイ。劇中リーディングも23分である。もう終りかなと思いきや、南総里見八犬伝の登場人物の名前の由来が始まる。たぶん、観客はここでも「まだ、八人ぶん、やんの」とヒェーッとなるのだが、そういうのって、オモロイなあ。・・・とはいえ、観客というのはナニか、という観客論がこの現在において今一度問われてもいいとは考えている。要するに、仕手からしてみれば、観手(観客)という幻想をどう捉えなおすか、舞台には何も問題を感じなかったが、名古屋の全ステージを観ていて、脳裏にあったのは、いつもそのことだった。

2009年8月 2日 (日)

ひとつ置いて

「人生とは芝居と遊び」と喝破からげて三度笠したのは山岸巳代蔵だが、このひとが(その思想について)新聞などでは書けないのは、アホな裁判をヤマギシ会が(現在は単なる養鶏業者なんだけど、かつては急進Z革命なんてやってたの)やってるからで、ヤマギシ会は一種のコミューンだから、世間の日常とは違う。食事は午前11時と午後5時の2回で、いまはどうか知らんけど、白米ではナイ(玄米か麦飯)。と、これを朝食を食べさせない児童虐待だなんていう輩がいたんだなあ。だいたい朝食なんてのは、早朝から仕事していた農業国家の名残で、ほんとはどうでもいいらしい。それより昼飯食って2~3時間の休憩があるメキシコのほうがよろしいようで、私なんかはそうしている。朝はトースト一枚とゆで卵にコーヒーである。ところで、これが腹減ってるから美味いのよ。朝から腹減ってるって、カラダがいい感じなんじゃないかな。・・・今回、重大な決意をして、芝居の観客アンケートを読むことにした。まだ一通も目を通してないが、『アチャコ』を何と観たのか、興味も大きいところである。関西は、朝日新聞に短評が出たが、さすが、私のaggressiveを読み取ってはいる。ところで、某国際作家にあるAV女優が噛みついている。性行為なんてのは村上某の書くような美しいものじゃナイという一撃である。私は某春樹は読んだことがナイのでようワカランが、人生は遊びであるのなら、どろんこ遊びもままごともあってもいいだろう。神道に鞍替えした、宗教本書きは、天皇を持ち上げるより、村上春樹を持ち上げたほうが、集票出来るのに、ちょっと戦略がアホだったな。(断っておくが、私は天皇陛下も皇后も尊敬しております)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »