無料ブログはココログ

« ふっキる | トップページ | 開店休業のお報せ »

2009年6月28日 (日)

やっぱりいっておくか

鬱病ゆえのaggressiveな病態のせいだと堪忍してもらうことにする。中日新聞6月27日夕刊(毎土連載)の『安住恭子の舞台プリズム』「劇団B級遊撃隊・夜明けの奥地」の文脈が私にはよくワカラナイ。まず、冒頭の「脳死から死に至る姿」というのは、どういう意味なのか。この文脈でいくと「脳死」は「死」ではナイということになる。(ただし、脳は死んでいる)、では、「死」とは何なのか。(私も脳死を個体の死と認める法案には反対の者だ)つづいて、シュールな(これはまともにシュールレアリスムとして、非現実的と解せばいいと思うが)冒頭の展開で、舞台に顕現されていることが、「女性の意識の世界だろうということが分かる」とあるが、では、この「意識」は、何処にあるのか。脳は死んでいるのだから、文意から察すると、意識だけが外界にあるとしなければならない。これを、単純にシュールのひとことでかたづけていいのだろうか。(この件については、私自身エッセイにも書いた)しかし、シャツとズボン姿が働きづめのメタファーで、ワンピースが少し頼りないシンボライズであるという根拠はどこをどうすれば表象として現れるのか。シュールだからどうでもいいのだろうか。それとも、私が服飾オンチで気づかないだけなのだろうか。指輪を何度も拾っては投げる動作は「男との幾度かの愛憎を、想像させる」のに異論はナイが、でも、それって使い古されてねえか。こういうのに赤面しねえかな。と思うのだが「シンとした魅力的な始まり」にみえたのならそれも、まあいいか。ただ、女性の踊りはフォークダンスである。フォークダンスは、次々と相手を変えていく手法のダンスだから、この「死んでいく」女性は、フォークダンスの喩と指輪の喩と、二重の強調をしなければならないほど、男をとっかえひっかえしていたのだろうか。さらにワケわかんないのは「彼女の意識下の思い出」って、「脳死」しているのに、意識下の思い出というのは、奈辺に存在するのだろうか。これもシュールだからいいのかな。万能だな、もう。「脳死状態で見る夢はとりとめもなく、歪み、拡散する」に至っては、「脳」が死んでいるのに、・・・ということは、この「脳死」ということ自体をひとつの不条理な矛盾として解せばいいのだろうか。「彼女はいつか、そうした記憶からも取り残されていく-。そこに死がある」「そのように死を描いた」ここがワカラナイ。評者は、この作品のどこに特殊な「死」があって、それがどのように描かれたのかという差異をいいたいのだろうか。死んだことがナイので断定は出来ないが、作品において、私が観た限りでは、「脳死」の死と、いわゆる「死」との描き方の違いは何もナイように思えた。「ここには死の意味を探る哲学はない」たしかに、思弁的なものはヒトカケラもなかった。ただしそれは、ドラマツルギーの問題ではなかったように考える。「けれども生と死の実相を見ているように思えた」。で評論は閉じられる。〔実相〕というのは、ふつうに用いても、仏教用語として用いても、〔真実の姿〕のことだ。ほんとかよ。という疑義だけが私には残った。少なくとも私にとっては生きるの死ぬのは日常茶飯における問題だからだ。

« ふっキる | トップページ | 開店休業のお報せ »

演劇」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/48521316

この記事へのトラックバック一覧です: やっぱりいっておくか:

« ふっキる | トップページ | 開店休業のお報せ »