ふっキる
ウディ・アレン新作『それでも恋するバルセロナ』には、ずいぶん不満だった。ところが、どういうワケか、私のユリイカは朝方目覚めのときに訪れるらしい。「あっ、そうか」と気がついて、あれは私の観方違いだったとハッキリ評価が裏返った。いつまでも『セプテンバー』や『アニーホール』を引きずっているのはこっちで、ウディ・アレンのドラマツルギーは、すでに先にいってるのだ。ひとことでいえば、「ふっキる」という手法、方法である。余分なものを含めて必要だと思えるようなプロットまで、それで構築出来るギリギリまでバッサリとやってしまう。そうすると、今作は恋愛のチャンバラということになる。恋愛心理がどうのこうのと、そういうお決まりの部分はすべてあっさり「ふっキって」しまっているのだ。・・・『ウルヴァリン』(ギャヴィン・フット監督)にはしてやられた。これも、見事なふっキり方で、マーベルを原案だけいただきの、さすがにアメリカは脚本家の層が厚い、コミックの単純幼稚なスジをちゃんと映画のものにしている。優れたミスディレクションだと、『Xメン』なみのレベルだろうと油断して観ていた私は、感心した。コミックの実写化の中でも最も成功している作品だと思う。『K-20』の何がマズかったのかがよくわかった。・・・で、帰ってからは録画してある『必殺2009・最終話』。これも実に小気味のいいふっキり方である。ストーリーはお約束なのだが、責め屋(必殺ゆかりの火野正平)や瓦版屋を登場させることによっての、実世間に対する皮肉と揶揄が効いている。さらに同僚の同心の行動が、意外性でありながら、ストーリーに厚みを持たせる。時代考証的には、同心は朱房の十手は持てないのだが、そんなことはもうどうでもいい。モーニングから帰宅後、名残を惜しんでもう一度じっくり観る。・・・ともかく学んだことは「ふっキる」というドラマツルギーである。この場合の「キる」は「斬る」であり「kill」だ。