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2009年6月24日 (水)

演技論・メモ

演技が自己表現などではナイことは、何度も書いていることだが、その錯誤がどこからやってくるのかといえば、演技者(役者でも演者でも俳優でもいいんだけど)にとって、演ずるということが「ある〔欲望〕の〔充足〕」という営為を含んでいるためだ。これは上手く「役」を演ずるかどうかということとは直接に関係しない。私などのように演出家でもナイのに、演出などやってる者にとっては、その演技者が上手く役を演じているかどうかよりも、その演技者がおのれの欲望を充たしているかどうかに、多くの注意を払う。その欲望が、逸脱して観客に不快感を与えないようにすること、私の演出としての仕事の第一は、この調整だといっても過言ではナイ。演技者がナニを欲してヤリたがっているのか、それをみつけ出すこと、それが、戯曲における劇との文脈から生じていることを逐一確認すること、私の演出などはそこに尽きる。この場合、演技者の充足は、演技が観客を通してもどって来る運動においてでも、演技者が対自的、即自的に感ずる悦びであってもかまわない。この論理の根拠はたいしたことではナイ。ただ、自身の演劇の始まりというものが、そうであったから、という他の何でもナイからだ。

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