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2009年6月

2009年6月30日 (火)

開店休業のお報せ

湯治、というか、放射能といえばゴジラだと思っていたら、ラドンなのでした。ラドン・ミスト療養のために、日本海のほうの温泉に4日ほど行ってまいりますので、お休みです。ひなびた

温泉町

だそうです。そうそう、いい忘れてましたが、勇造さん、還暦コンサート、おめでとうございます。それから、と、流山児さん、『ユーリンタウン』大成功おめでとうございます。どっちも、宿痾のために足を運べませんでした。まことに残念しごくです。では、出がけに歌を。

こころたけくも おにがんならず ひととうまれて なさけはあれど ははをみすてて なみこえゆけば ともよけいらとは いつまたあわん

なみのかなたの もうこのさばく おとこたこんの みのすてどころ むねにひめたる たいがんあれど いきてはかえらむ のぞみはもたじ  (『蒙古放浪の歌』)

たかが、温泉でえらい、たいそうな歌ですんまへん。

2009年6月28日 (日)

やっぱりいっておくか

鬱病ゆえのaggressiveな病態のせいだと堪忍してもらうことにする。中日新聞6月27日夕刊(毎土連載)の『安住恭子の舞台プリズム』「劇団B級遊撃隊・夜明けの奥地」の文脈が私にはよくワカラナイ。まず、冒頭の「脳死から死に至る姿」というのは、どういう意味なのか。この文脈でいくと「脳死」は「死」ではナイということになる。(ただし、脳は死んでいる)、では、「死」とは何なのか。(私も脳死を個体の死と認める法案には反対の者だ)つづいて、シュールな(これはまともにシュールレアリスムとして、非現実的と解せばいいと思うが)冒頭の展開で、舞台に顕現されていることが、「女性の意識の世界だろうということが分かる」とあるが、では、この「意識」は、何処にあるのか。脳は死んでいるのだから、文意から察すると、意識だけが外界にあるとしなければならない。これを、単純にシュールのひとことでかたづけていいのだろうか。(この件については、私自身エッセイにも書いた)しかし、シャツとズボン姿が働きづめのメタファーで、ワンピースが少し頼りないシンボライズであるという根拠はどこをどうすれば表象として現れるのか。シュールだからどうでもいいのだろうか。それとも、私が服飾オンチで気づかないだけなのだろうか。指輪を何度も拾っては投げる動作は「男との幾度かの愛憎を、想像させる」のに異論はナイが、でも、それって使い古されてねえか。こういうのに赤面しねえかな。と思うのだが「シンとした魅力的な始まり」にみえたのならそれも、まあいいか。ただ、女性の踊りはフォークダンスである。フォークダンスは、次々と相手を変えていく手法のダンスだから、この「死んでいく」女性は、フォークダンスの喩と指輪の喩と、二重の強調をしなければならないほど、男をとっかえひっかえしていたのだろうか。さらにワケわかんないのは「彼女の意識下の思い出」って、「脳死」しているのに、意識下の思い出というのは、奈辺に存在するのだろうか。これもシュールだからいいのかな。万能だな、もう。「脳死状態で見る夢はとりとめもなく、歪み、拡散する」に至っては、「脳」が死んでいるのに、・・・ということは、この「脳死」ということ自体をひとつの不条理な矛盾として解せばいいのだろうか。「彼女はいつか、そうした記憶からも取り残されていく-。そこに死がある」「そのように死を描いた」ここがワカラナイ。評者は、この作品のどこに特殊な「死」があって、それがどのように描かれたのかという差異をいいたいのだろうか。死んだことがナイので断定は出来ないが、作品において、私が観た限りでは、「脳死」の死と、いわゆる「死」との描き方の違いは何もナイように思えた。「ここには死の意味を探る哲学はない」たしかに、思弁的なものはヒトカケラもなかった。ただしそれは、ドラマツルギーの問題ではなかったように考える。「けれども生と死の実相を見ているように思えた」。で評論は閉じられる。〔実相〕というのは、ふつうに用いても、仏教用語として用いても、〔真実の姿〕のことだ。ほんとかよ。という疑義だけが私には残った。少なくとも私にとっては生きるの死ぬのは日常茶飯における問題だからだ。

2009年6月27日 (土)

ふっキる

ウディ・アレン新作『それでも恋するバルセロナ』には、ずいぶん不満だった。ところが、どういうワケか、私のユリイカは朝方目覚めのときに訪れるらしい。「あっ、そうか」と気がついて、あれは私の観方違いだったとハッキリ評価が裏返った。いつまでも『セプテンバー』や『アニーホール』を引きずっているのはこっちで、ウディ・アレンのドラマツルギーは、すでに先にいってるのだ。ひとことでいえば、「ふっキる」という手法、方法である。余分なものを含めて必要だと思えるようなプロットまで、それで構築出来るギリギリまでバッサリとやってしまう。そうすると、今作は恋愛のチャンバラということになる。恋愛心理がどうのこうのと、そういうお決まりの部分はすべてあっさり「ふっキって」しまっているのだ。・・・『ウルヴァリン』(ギャヴィン・フット監督)にはしてやられた。これも、見事なふっキり方で、マーベルを原案だけいただきの、さすがにアメリカは脚本家の層が厚い、コミックの単純幼稚なスジをちゃんと映画のものにしている。優れたミスディレクションだと、『Xメン』なみのレベルだろうと油断して観ていた私は、感心した。コミックの実写化の中でも最も成功している作品だと思う。『K-20』の何がマズかったのかがよくわかった。・・・で、帰ってからは録画してある『必殺2009・最終話』。これも実に小気味のいいふっキり方である。ストーリーはお約束なのだが、責め屋(必殺ゆかりの火野正平)や瓦版屋を登場させることによっての、実世間に対する皮肉と揶揄が効いている。さらに同僚の同心の行動が、意外性でありながら、ストーリーに厚みを持たせる。時代考証的には、同心は朱房の十手は持てないのだが、そんなことはもうどうでもいい。モーニングから帰宅後、名残を惜しんでもう一度じっくり観る。・・・ともかく学んだことは「ふっキる」というドラマツルギーである。この場合の「キる」は「斬る」であり「kill」だ。

2009年6月24日 (水)

演技論・メモ

演技が自己表現などではナイことは、何度も書いていることだが、その錯誤がどこからやってくるのかといえば、演技者(役者でも演者でも俳優でもいいんだけど)にとって、演ずるということが「ある〔欲望〕の〔充足〕」という営為を含んでいるためだ。これは上手く「役」を演ずるかどうかということとは直接に関係しない。私などのように演出家でもナイのに、演出などやってる者にとっては、その演技者が上手く役を演じているかどうかよりも、その演技者がおのれの欲望を充たしているかどうかに、多くの注意を払う。その欲望が、逸脱して観客に不快感を与えないようにすること、私の演出としての仕事の第一は、この調整だといっても過言ではナイ。演技者がナニを欲してヤリたがっているのか、それをみつけ出すこと、それが、戯曲における劇との文脈から生じていることを逐一確認すること、私の演出などはそこに尽きる。この場合、演技者の充足は、演技が観客を通してもどって来る運動においてでも、演技者が対自的、即自的に感ずる悦びであってもかまわない。この論理の根拠はたいしたことではナイ。ただ、自身の演劇の始まりというものが、そうであったから、という他の何でもナイからだ。

映画情報『トランスポーター3』

リュック・ベッソン脚本、製作の人気シリーズ第3弾。あえて難クセつけるなら、このシリーズは『007』とは一線を画していたところが面白かったんじゃナイかなと思うのだ。が、何だか『007』(最近のダニエル・クレイグ主演のものではあるが)にちょっと近づいた感じがして、おっさん、たのんまっせと、一喝入れたい気がしないでもなかった。とはいえ、これだけの娯楽映画が、何でいまの邦画にはなくなったのだろうか、と、嘆くより、不思議でしかならず。やれケータイ小説の映画化だの、必ず泣くだの、ゆるゆるの演技がいいだの、それもスジの善し悪しで、スジもヌケもドウサもたいしたことなく、そうかと思えば、おセンチな戦争映画に、前世紀の青春熱血路線だ、では、食傷というよりも、食わず嫌いである。この『3』で主人公がどれだけのせりふを口にしたか。数えるほどでしかナイのだ。それもすべて短く適切なエスプリの効いたひとことである。つまり、このシリーズは、新しいハードボイルドだと思うのだ。いつまでも、B級タブロイド版でいてもらいたい。

2009年6月22日 (月)

さても

本日明日は、伊丹。塾。これが、ナニをレクチャーしていいんだか。鬱病の身体症状は殆ど終息してきているのだが、精神的には、aggressiveと、焦燥の繰り返し。まるで、負けのワカッタ囲碁を打っているようで、頭、かかえているところ。思考能力には問題ナイようなのだが不安定。脳の便秘みたいなもの。朝から視力減衰で、とくに右目が視えにくい。つい先日の眼科の定期検診では、眼圧、視神経、などに異常はナシ。さても梅雨時、ただでさへ鬱陶しいのだが、雨はそうキライではナイ。ただ、この蒸し暑さが、堪える。交感神経はむずがって暑いんだかそうでナイんだか、じわじわと汗だけ出る。好不調、ありと知れば、許容せるとはいうものの、さてもさても、なのである。

2009年6月20日 (土)

キャッチコピー

ハナから太宰の短文(名文)が出てくる。これを、ナビゲーターの女子アナが「キャッチコピーのような文句です」と感想めいたことを述べる。これがインプットであるならば、アウトプットにおいては「しかし、そうではナイのです」と結ばねばならぬ。ところが、この欺瞞的排他主義邪知暴虐受信料放送局(北朝鮮ふうにいうとそうなる。ここで、邪知暴虐は、太宰の有名な短編小説の冒頭からわざと抜き出して用いた)は、肯定的に終わらせる。「ほんとうは太宰は正義の味方で、家庭的で、立派なひとだったのです」が結論めいて謳われる。ここまでくると奸佞邪知(かんねいじゃち。これも、同じ短編から抜き出した)である。私はキャッチコピーそれ自体のことを悪くいっているのではナイ。たしかに、太宰のビビッドな表現は、あたかも惹句のような〔いいきり型短文〕を多用する。しかし、文学の表現と商業宣伝文案とを同じように扱っていいはずがナイ。こういう手触りでなにやらワカッタような顔をして平然としている厚顔無恥な放送偽インテリが許せないのである。「かならず負けてやる」というコトバどおり、太宰治は太宰治の生涯を完璧に演じきって、太宰治の人生を完成させて、自身を終えた。至難の業である。太宰が、その作品が、いまも太宰ファンをとらえて離さないのは、奈辺にあるのか、人民から暴力団とまったく同じように上納金を集めて巣くっている、要するに最も太宰が忌んだ、その田舎名士のごときアホたちが、太宰の『人間失格』をモチーフやテーマにして45分の番組をつくることに、寸善尺魔の思いなおなお強い。

つなぎ

鬱病の身体症状は軽減し始めた。とはいえ、何がきっかけで逆戻りするや、予断はならない状況ではある。ほんの些細なことで、いっちまうからな。・・・児童小説のシリーズ1巻めを脱稿。今回は3巻通しで、主人公のライバルを統一したため、さっそく次にかからねばならない。いわゆる、海外テレビドラマのシーズン1が終わって、つづく、のスタイルにしてあるためだ。・・・ずっと寝酒をやめているので、朝のアイスコーヒーがカラダにしみていく。この快感がたまらない。トーストが美味い。(私はパンそのものの味が損なわれるためにバターはつけない)咳止め煙草の微量ニコチンが、これまたウマイ。・・・近所の知己が悪徳受信料放送局の特集『絶望するなダザイがいる』とかいうのをビデオってくれて、わざわざみせてくれたのだが、受信料を払っていなくてほんとに良かった。これほどひどい、なんだかワカラン番組は観たことがない。太宰生誕百年で、姑息に創った錯誤と欺瞞と手抜きの下手くそな番組だった。テーマやモチーフ以前の、作り手の倫理の問題だろう。霊感商法よりあくどいのである。・・・それに比して、ここのところ数日の中日新聞(東京新聞)の一面コラム『中日春秋』はセンター前のクリーンヒット連続安打だと思う。感服した。

2009年6月17日 (水)

グローバル

『ER』シーズン8の最終話の脚本はお見事だった。この作品独特の悲惨さを次のシーズンにつなぐカタチで終わるのだが、そこでの主要登場人物である外科レジデントのニーラの台詞の中に、悲惨なシチュエーションの予兆を彼女にも、視聴者にも〔無意識〕な表出として表現させたのは感服した。とかく映像ドラマはその映像のモンタージュで、そういう予兆を表現しがちなのだが、コトバという何気なく聞かせねばならない手法によって、それを成したのは、このドラマのただならぬ水準を物語っている。・・・一昨日あたりからまた鬱病の身体症状が現れ始めて、かなりキツイ状態なのだが、脳は病みつつも、思考はしているようで、希死感や、その逆の「生きねば」という強い抵抗感も薄く、もう何十回となく経験した、身体の苦行に悶々としているが、精神は冴えている。今朝のモーニングでは、何の拍子にか、平田オリザ王子と坂手洋二氏のグローバル(国際的という意で用いておく)な演劇戦略の志向について、ふいに考えることがあった。オリザ氏の場合は、若い頃の自転車によるコスモボリタンな旅行者としての経験による世界観というものが、いわゆる〔留学〕という在り方が変容したかのようなカタチで存在していて、その世界観と折り合いをつけるカタチでの演劇営為の拡張があるが、同じグローバルな戦略において、坂手氏の場合はふだん、自らの劇団にメジャーな俳優をプロデュースするのと同じ感触、意味合いにおいて、いわば海外を〔迎え入れる〕という縮積したカタチで、これを展開しているのではないかという観測である。だから、両者のベクトルは真逆を向いていると感じがする。・・・昨日は定期的な診察で主治医(内科)を訪れたが、血圧は正常値を示しており、精神的なストレスは一応、小康状態にある。鬱病の身体的病態は仕方ないので、これが過ぎるのを待つしかナイ。

2009年6月16日 (火)

一歩前へ

ゆんべは蒲団の上で、七転八倒、どうにもしんどくて、けっきょくカラダを起こして胡座をかいたところまでは記憶にあるのだが、そこからいつの間に眠ったのかワカラナイ。気絶したんじゃないのか、と朝、目を覚まして思った。スピノザに関する書籍を就寝前に読んでいるのだが、ゆんべは1ページがやっとで、投げ出してしまった。それでも、今朝イチバンに、そこにあった「感情の模倣」という概念にインスパイアされた。スタニスラフスキーの「感情の記憶(五感の記憶)」は有名だが、どうしてもそこのところにいつも違和感をもっていたのだが、スピノザの「感情の模倣」というのは、使えるなと、直観した。モーニングしながら、そのことについて考えを巡らした。これはこれで、また「演劇」のセクターに書き込むこともあろうかと思う。「天才とは何があってもともかく一歩前にいくひと」と、かつて定義したことがあったが、天才はおこがましいとしても、脳は病みつつも後退しているだけではなさそうである。

2009年6月15日 (月)

何もしない

今日は午後から強迫観念の波状攻撃というヤツだ。ビデオを観るためにつけたテレビのチャンネルがちょうど『笑っていいとも』で、その芸人に、「たいへんだね、わざわざひとを笑わせて」などと、皮肉をいったのがマズかった。じゃあ、お前は何のために演劇なんぞをやってきた。お前のやってきた演劇は何だった、と、自責が始まった。宮沢賢治を騙って、食ってきたくせに。この徒労妄想、無力妄想。さすがに表現者は、一度や二度はそんな妄想にとりつかれているようで、中井英夫さんが、あの日本ミステリのビッグ3に数えられる作品に『虚無への供物』というタイトルをつけたのは、飾りじゃナイだろう。鮎川信夫さんが「生まれてきたのはインシデンタルなギフトのようなものだから、そのお返しに書くのである」と述べたのも、表現という営為の空虚に対してだ。私はいま精神がうまく作動していないので、しばらく自責の中で、もだえてしまった。自慢の表現論も、世界は私の表現ではなくなり、私も孤絶している、というふうに、まるで世間が仮想空間のように思えて、もう生きちゃいられない、何も出来ない、と観念した。この自責はしばしつづいたが、そうだ、「何にもしないのがイチバンなのだ」「何にもしないと退屈なので遊び始めたのだ」「それが演劇だったのだ」という論理に展開出来るまで、断腸の思いだった。そう、何にもしない。何にもしなくていいのである。「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きてさえいればいいのよ」(『ヴィヨンの妻』・太宰治)

2009年6月14日 (日)

怯懦

夕食前に書いたエッセーを削除した。何に怯えているのかワカラナイが、なんとか鼓舞せんとして書いたつまらない文章だった。朝から被害妄想に似た念慮が入り込んで、家人にずいぶんと迷惑をかけているのではないか、叱られるのではナイか、私のことで何か不満があるのではナイか、鬱陶しいのではナイかと、口を貝のように閉じて、ココロが微動だにせず、それでも、かつては、こういうときにこそ書いていたではないかと、自分を奮い立たせて、仕事をした。すると、またツマラナイものを書いているのではナイかという強迫観念が現れる。ケンメイに冷静に、書いている小説を頭から解析して、そんなことはナイはずなんだがなと、それでも半信半疑なのである。今朝、いつもの時間に喫茶店のモーニングから帰ると、異常な眠気がして、そのまま寝床に倒れ込むようにして2時間も眠った。昨夜はそんなに遅く就寝したワケではナイ。その上、やはり昼間眠くて、また午睡をとった。何か脳がひじょうに疲れているなとだけ思った。そうかと思えば、昨日は、昼日中、往復1時間もかけて坂道を登って汗だくになりながら、咳止めの喫煙薬を買い求めてきた。別に自我が崩壊しているワケではナイが、要するに行動に落ち着きがナイのだ。相変わらず血圧は下が高く、交感神経の興奮が続いていることを物語っている。不安や焦燥はナイのだが、厭世感は強く、厭う世間に生きているということにびくついている、と、いってみればそういうことになる。己が影に吠える犬と同じだ。

2009年6月11日 (木)

渡世の義理

『夜明けの奥地』(劇団B級遊撃隊)についての劇評(みたいなもん)が、ちょっと冷たいんじゃないかと、ハラハラしている知り合いや、また、それを読んだ作家、演出家、役者、関係者はオモシロクないんじゃないかという、同じく同業者がいるらしいので、弁明させて頂くが、ああいうものは渡世の義理というものと理解していただかなくてはしょうがナイ。家人には、ああいうことは個人的にいってあげればいいのよ、と注意されたが、私も私の稽古場では、みなさんの面前で演出上の注意を役者にすることと、個々にそうすることの区別くらいはしている。で、コトバが足りなかったかも知れないので(というのも、中日新聞のコラムとの重複を懸念したからなのだが)もう少し、老婆心を出しておく。戯曲を書く場合、モチーフとテーマとストーリーを同じものにするのは、素人かビギナーのよくやる失敗で、そんなことはベテラン作家にはよくワカッテいて然るべきだと考える。また、フォークダンスを例にした苦言は、演出家が、forme(英語ではform)とposeとの違いをまったく理解していないか、もとから無視しているかのどっちかであるように思えた、ということだ。formeとは、たとえば狂言では、それが「歩くこと」であるに対して、能が「止まる(留める)」ことであるという違いから察して頂ければと思う。もちろん、私ごときの感想など、一笑に付しても、ひとはいろいろいうからな、という程度で聞き流すも、当方は関知しない。

2009年6月10日 (水)

月の雫

かつてきみは ひとつの夢であった

月の雫でできた ひとつの夢であった

朝露の光る露のその露が 夜の涙であると知っていた

だからきみは あの廃墟のかなしさを 歌にした

遠い国から盗んだ自転車をこぎながら 

きみはその歌を口笛にして 瓦礫の青空を走った

明け方だ みんなはきみをみたという

みんなのひとりが きみのすがたを みたという

わたしも きみをみたという

けれど ああ すまなかった

そんなふうにして みんなとわたしたちひとりは

きみを夢から石像につくりかえてしまったのだ

その化石のような

その忘れられた骨のような

きみの残した 歌と青空の灰でつくられた 追憶に

今夜も月の雫が垂直におちていく

夜の涙が冷たくしぶく

かつてきみであった夢が いま

朝露となって消えていく

ひとのこゆえの はかなさは

きみの走ったこの明け方を ここまでかなしく せつなく慕う

わたしはみんなはひとりのひとは

かつての夢をみたいと 嘆く

餓鬼

昨日、東海地方は梅雨入りだそうで、律儀に今日はしとしとと雨になった。出仕事には鬱陶しいが、家にいる分には、雨のほうがいい。まだ蒸し暑くはなく、一階の利を活かして、土の濡れる香りを嗅いでいる。隠遁、出家、隠居、引退、転職、自裁、いろいろと考えたが、いまのところ、実現性に乏しく、ただ、生存の欲求だけは、自然性なのか脳もこれを否定せず、といって萎根では性欲も中途半端で、とはいえ、寝酒をやめてから、戯曲の弟子の精神科医がいみじくも予想していたように、まったくの縮茎ではなく、朝などは、やや根元のほうに励起の感触がみられるようになってきた。悪いこっちゃナイだろう。従って食欲というのだけが、空腹でもナイのに、食い気は他欲を補って活発で、ついつい、マーケットで、あれもこれもと買ってしまう。まるで餓鬼である。とはいえ、世間、人間から遮断されて、じっとしているのがイチバンだ。何事も成すべからず。仇になるだけ。

2009年6月 7日 (日)

ストレス

二日つづけて演劇なんぞを観たので、そのストレスでゆんべは徹夜したようなキツイ疲労で蒲団に沈んでいくようにバテ寝してしまった。演劇は月に一回くらいが関の山だなと反省しきりである。しかし、よくもまあ、みなさん、やってらっしゃるなあ。って、私もやってきたんだけども、ねえ。昨日のマチネ『夜明けの奥地』は観ていて赤面してしまった。こういうのを恥ずかしくなく出来るのは高校演劇までではないのか。作家も演出家もいったい何の根拠の自信があるのか、冒頭のフォークダンスひとつ踊れない身体の何を頼りにしているのか。私も下手な役者しか(やや一部を除くが、というのもゲストがあったりしたしね)相手にしてこなかったが、下手は下手なりに可愛げのある、観客のみなさまにせめて愛される演出に努めたものだし、出来ないのなら、戯曲のほうを出来るように何度も書き直したのだ。全体の感想の詳細(というほどでもナイが)は中日新聞の『エンタ目』にゆずることにして、老婆心で述べておくが、観客なんて何のアテにもなんねえぞ。

2009年6月 6日 (土)

雨の日に

本日、朝から雨。涼しい。そういえば、去年の初夏もこんなふうだった。それで、今年の夏は涼しいのかななどと思っていたら、やっぱり次第に蒸し暑くなって、例年どおりになった。昨日は寝酒はなし。モーニングのアイス・コーヒーが染みる。バターをつけずに食べるそのまんまトーストが美味い。こういう日は健康というのは、この程度のものだろうと感ずる。午前中の仕事を終えて、そうだなあ、かつて手一杯に仕事があった日は、午前、午後、夜と机に向っていたなあ、と、ふと、その頃を憶い出す。昨晩は、調べ物のつもりで太宰治の『晩年』を開いてみたが、読んでいない作品もあることに気づいて、しばし読書。半世紀以上を経て、現在に耐える作品ばかり。その天才ぶりに舌を巻く。そういえば、戯曲を書き始めたとき、二つ心したことがあった。ひとつは太宰の小説のように読みやすい戯曲、読める戯曲を書くという決意。もうひとつは安吾のほうだが、それはまたの機会に。

いいんじゃないですか

中日新聞で『エンタ目』の連載を始めたので、通年より数倍、観劇の回数が増える。とくに感想や批評を書く気はナイが、各回に写真が一葉必要なので、何か観ておかねばならない。今月は本日観劇予定の『夜明けの奥地』(劇団B級遊撃隊)のつもりだが、来月分で長久手町文化の家に触れるので、昨日は、長久手まで『相思双愛』(パンダラコンチャ)を観に出かける。ペンクラブの河野さんと、劇評家の安住さんにはさまれての観劇。簡単にいってしまえば、山田太一さんの本と向田邦子さんの本を交互に観ているふう。そうか、向田さんというのは近代文学なんだなあ、だから古くならないんだ。元から古いんだから。山田さんのは現代文学より少し先にいったから、いまでは古くなったんだ。てなことを考えながら、どこで、どんなやり方で二つのパラレルな芝居を交えるのかだけを興味をもって観ていた。で、ふーん、なるほどね、美しくまとめたなあ。出演者は、テレビで見知ったひとたちばかりの4人。あのひとたちにとっては、演劇というのは、ああいうものなんだなあ。と、センスやクオリティでは、加藤健一芝居のレベルではナイ、上手い着地のさせ方に拍手しておこう。安住女史はお疲れのようだったけど、私は途中から目を閉じて、芝居を聞いていた(戯曲を耳で追っていた)だけなので、ストレスも多くはなかった。それでも、寝酒に水割りを二杯呑んだなあ。『必殺2009』もゆんべはまったく駄作だったし。おかげで、寝覚めはワルワル。| 

2009年6月 3日 (水)

でが

少しずつではあるが、回復の兆しがある。ハイデガーふうにいえば「私である私がある」という感触が戻ってきているというふうで、マルクスふうにいえば「私が私を対象化する」ことが次第に出来るようになってきたという感じだ。私という存在の了解と、私との関係の仕方が、本来の様態に復調してきたという、まあ、利口ぶっていえば、以上のようなことなのだが、如何せん、なぜ、そうなってきたのかは、よくワカラナイ。漠然としていえることは、何かアグレッシブな感情が滞っている意識を摂動したような雰囲気だ。ただこれは一時的な復調かも知れないし、希死感は薄らいでいるが、想定外の死の誘惑がなくなったという程度に過ぎない。寝酒をやめて何日かになるが、昨夜、ビール一缶呑んだだけでも、翌朝の気分が悪く、この際、もう寝酒は呑まないほうがいいと判断している。本日、昼飯はエリンギとピーマンのラーメン、ご飯と壬生菜。夜はタマネギのマリネ、タコ、ポテトサラダ。たぶん素麺。

2009年6月 1日 (月)

異議申し立て

私のことを私が〔了解〕する。これを私の時間的営為とする。私が私と〔関係〕する。これを私の空間的営為とする。どちらも私の〔存在〕を問われることである。そうして、この位置づけは(私という意識は)私の身体に関連づけられる。それが意識的であれそうでナイであれ。(こういう場合「私とは何か」という循環的な問いは、「私とは私の総体である」と答えておけば、それでとくに支障はナイと思える)そうすると、鬱病の〔了解〕は「追憶」が過去に向かわずに現在の私の存在に向かうことであり、〔関係〕は、意識がそのまま身体にめり込んでしまうという状態、外界に広がらない状態を示している。手っとり早くこれをいってのけると、「私は在る」ということがナイ、という矛盾に置かれて、その矛盾に、身体が異議申し立てをしていることが、そのまま身体の病態となって露出しているということになる。・・・ゆんべ、お決まりの身悶えする苦しさの中で、何かに無理やり熱中させて希死感の苦悶から逃れるために『心的現象論・本論』の「うつ」症論を、歯を食いしばって読んだ。その理解が以上だ。とはいえ、この、意識-身体の疎外がなぜ表出するのか、それがなぜ病態となるのか、ワカッタわけではナイ。

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