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2009年5月14日 (木)

たとえば、そうではナイ

ドガの『エトワール、または舞台の踊り子』といえば屈指の名画である。ところが中野京子女史いうところ(『怖い絵』朝日出版社)この絵は娼婦とそのパトロンというバレエ黎明期の惨状を描いた一つということになる。その理屈でいうともちろんドガは踊り子を描きたかったのではナイ。「芸人」の悲惨、もっと深くいえば冷酷、冷血、その中に醸しだされる美を描きたかったのだ。私たちはその事実の前に表現というものの真理を突きつけられる。私が「私」というとき、すでにその「私」は私によって表現された私であって私それ自体ではナイ。そういうことに最初に気づいたのはおそらく哲学者のカントだろう。従って私などというものは存在しない、とまで池田晶子はいってのけたのだ。ただし、彼女の場合はヘーゲルが好きだというから、私と「私」との関係にまで深く思考したはずなのだが、著書の『私とは何か』にはその痕跡がみあたらない。そこが、池田哲学に対する不満である。おそらくそれは彼女の一種の「言語信仰」のためだと推測される。命題「私とは私の隣人である」というのは〔表現〕である。表現はドガの名画のようにA=Aという自同律を嫌うのだ。それはシルクハットから鳩や兎だけでなく虎をも出す営為である。表現は私それ自体などは問題にしない。あくまで表現された私だけの陰影を踏む。

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