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2009年5月 7日 (木)

演劇者からひとこと

ゆんべは萎える気持ちを奮い立たせるのに長いつまらない文章書いたけど、あれでだいぶんに良くなったんだから、いい気なもんだ。さてところで、空が青いという、にはまだつづきがあるのである。私などはコトバでより多く「表現」を成すものだが、「空が青い」「花が美しい」というコトバにおいて、それが即心的表出を表現しているなどと思ったことはナイ。簡単にいえばですな、ココロの表出がそのまま表現出来るなどとは信じてはいないのだ。ここに言語信仰者とのびみょーな違いが在る。ココロの表出から表現に至るまでに転がっている疎外を如何にすべきか、という格闘こそがほんらいの表現の格闘なのだ。従ってウィトゲンシュタインのように確信犯的に世界は言語がすべてだと勘違いするほど楽天的ではナイ。私たちはカラダを有する。このカラダというのも表現をする。最も身近な表現は「病気」あるいは「障害」という異議申し立てだ。病むということもまた表現である。つまり、ココロからの表出の疎外であるというふうに捉えるのである。演劇はこのカラダを表現に用いるので、コトバ-カラダ-ココロという三位一体の神話である。語りえぬものには沈黙、などしている場合ではナイ。語りえぬものを語ってみせるのが虚構というものだ。虚に構築する、からこれを虚構という。単なるウソというワケではナイのだ。喫茶店でホットと注文して、きつねうどんが出てきたら、慌てず騒がず、ポケットから七味を出して振りかける、くらいのことが出来ねばならぬ。不条理に対する反抗こそが、表現者の意地というやつである。私とは何か。私のことは私にしかワカラヌ。私のことは私にもワカラヌ。私は常に私でありながら私ではなくなりながら私になっていく。これを「私の三態」という。これは私が世界の表現であるという基本命題からの演繹だ。私を何かが経験していく。それを演劇は反射的に知ることが出来る。その精神現象(ココロ)と身体現象(カラダ)を私は言語表現(コトバ)で結びつけようとする。それが劇というものだ。それを広く演じてみせるから「演劇」というのである。その相違と工夫の技を演技という。演戯などという洒落た概念(字面)は如何様にも用いることが出来て便利そうだが、けっきょく何もいっていないのとかわりない。何故なら演劇そのものが戯れ(玩具)であるからだ。演劇は現実を写像するものには違いないがそのファンクションはニュートン力学を逸脱する。そこにココロの表出から表現に至る純粋疎外をみるのは必然だろう。ココロはコトバではナイという矛盾。ココロはカラダではナイという矛盾。その矛盾の運動途上に、演劇者は現れるのだ。演劇が神事から発展してきたことの由来はその辺にあるようだ。

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