既死
「死ぬな」というコマンドがある。「死にたい」「死のう」とともに。このコマンドが何処から発せられているのか、先を見越しての防衛策からか、それは幾分そのようにも思えるがまるで違うようにも思える。私の稚拙な論理癖はそれをみつけようとフル回転する。そうするとそのコマンドは「希死感」そのものから立ち上がってきているとしか考えられない。ずいぶんと矛盾したことだが、死というものがまた存在の上にあるものならば非存在の死というものは有り得ない。よって、私は私にこうコミュケートしてくるのだ。「お前は既に死んでいる」、まるで『北斗の拳』だ。笑っている場合でもナイ。既に死んでいるものに死があるワケがナイ、とそんな論理を突きつけるのだ。死を希求するとき、同時に生存を希求しているという、疎外の中に人間の心的な営為がある。・・・今日、どうしても焼き肉が食いたくて、家人と二人、夕飯は近所の焼き肉屋に出掛けた。焼き肉四人前とアト、テールスープを飯にかけて食った。特に胃がもたれているというふうでもなく、欲求が充たされたことに身体が満足している。この動物的な生存への意志が何であるのか、私は何もワカラナイ。相変わらず精神は愚鈍としており、身体の動きは弛緩している。それでも脳はかってに小説のプロットを考え、メモは増える。「生きている心地がしない」という鬱病独特の病態にあまり変化はナイが、まるでゆっくり泥の河を流れていくように時間が過ぎていく。自動航行装置で飛ぶ飛行機の飛翔のように、ともいえる。