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2009年4月26日 (日)

死即生生即死

『死とは何か』(池田晶子・著)を読了。簡潔にのべれば、彼女の「死」についての論理はこうである。一人称の死は経験出来ない、故にその死を語ることは不可能である。二人称の死は親しき者の死であって、想念(思い出といってもいい)である。然るに、これが死であるということはいえない。三人称の死は現象であって(二人称もそうなのだが)死してそこにあるのは死体であって「死そのもの」ではナイ。よって死というものは「存在」しない。存在しないものを恐れても仕方がない。カント派の哲学らしい考え方だと思う。私の考えは少々違う。これまた簡潔に述べれば、ひとは生きていると同時に死んでいると考えていいように思う。オギャーと生まれた時から生とともに死が始まる。私は現在生きているが、それは刻一刻と死んでいる。で生が終わる(滅する)とともに死も終わる。これを生即死死即生という。従って彼女のいうように死は観えないものではなく、いまここに現存するものである。それを識知出来るのは動物の中でも人間だけである。生と死は同一矛盾なのだというのが私の考えだ。私は最近、実父の「いわゆる死」に遭遇し、遺体やお骨を観たが、そのいずれにも死というものを表象出来なかった。何故なら死もまた終わっていたからに違いない。とはいえ、私は葬式をはじめとするセレモニーや葬式仏教の仕来りを非難するものではナイ。現在、ひとの死をもっともコトバとして認識し得るものはそういう中国仏教から発展した祖先供養しかナイからだ。それはそれで合理的であると考えている。浄土真宗も親鸞仏教からははるかに遠ざかってしまったが、それは現在の仏教が釈迦仏教とまるで無関係になったのと同様のことだと思う。宗教という共同幻想とその権力構造のヒエラルキーは、「死」とは何の関係もナイものだ。死は最も身近な生と共にしか存在しない。かつ空間的には個的に在りながら、関係の中に在り、また時間的には無常であるとした釈尊の教えに共感する。私自身のコトバでいえば、生もまた表現なら死もまた表現である。(もちろん、ココロの表出が即表現となるワケではナイ。そこには純粋な疎外が横たわっている。その疎外に反抗し続けること、それ即ちまた表現である)

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